220・宮本武蔵「風の巻」「門(9)(10)」


朗読「220風の巻62.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 08秒

 ひそかに万一まんいち変化へんかをおそれて、敏感びんかんになっていた童心どうしんに、そのおそれていた予感よかんが、ふいに事実じじつとなって、おおきくうつってえたのであろう。
 城太郎じょうたろうは、途端とたんに、
「いけない、いけない」
 絶叫ぜっきょうちかこえし、
「だめだよ、お師匠様ししょうさま。――なくっちゃだめだよ!」
 武蔵むさしうで懸命けんめいッぱって、もうすぐそこのもんうちにいるおつう枕元まくらもとまで、どうしてもれてこうとする。
さわぐな」
 武蔵むさしは、夜気やきのうちにしんとしている烏丸家からすまるけ邸内ていないはばかって、
「まあ、ようけ。わしのいうことを」
かないかない! お師匠様ししょうさまはさっき、おいらと一緒いっしょくといったじゃないか」
「だから、ここまで、おまえとともたではないか」
もんまえまでといやしないじゃないか。おいらはおつうさんにうことをいってたんだ。お師匠様ししょうさま弟子でしうそおしえていいのかい」
城太郎じょうたろう、そうたけらずに、まあわしの言葉ことばちついてけよ。この武蔵むさしにはまた、ちかいうちに、生死せいしれぬせまっておるのだ」
さむらいはいつも、あしたうまれてゆうべにぬる覚悟かくご勉強べんきょうしているのだって、お師匠様ししょうさま口癖くちぐせにいってるじゃないか。それなら、そんなこと、今始いまはじまったことでもないだろ」
「そうだ、自分じぶんつねにいいれている言葉ことばも、そうしておまえくちからいわれると、かえっておしえられる気持きもちがする。――今度こんどという今度こんどこそは、武蔵むさし覚悟かくごのとおり、九死きゅうしのうち一生いっしょう覚束おぼつかなかろう。それゆえ、なおさらおつうさんにはわぬほうがよいのだ」
「なぜ。なぜ! お師匠様ししょうさま
「それはおまえはなしてもわからぬ。おまえいまおおきくなってみるとわかる」
「ほんとに……ほんとにお師匠様ししょうさまは、ちかいうちに、ぬようなことがあるの」
「おつうさんへはいうなよ。……病気びょうきなそうじゃが、からだ堅固けんごにして、ゆくすえよいみちえらんでたもれと……なあ城太郎じょうたろう……そうわしがいってったともうして、いまのようなことは、かさぬがよいぞ」
いやだ。いやだ。おいらはいうよ! そんなこと、おつうさんにだまっていられるもんか。――なんでもいいからお師匠様ししょうさまておくれよ」
「わからぬやつ!」
 武蔵むさしはなすと、
「でも! ……お師匠様ししょうさま
 城太郎じょうたろうしてしまい、
「でも! ……でも! ……それじゃあ、おつうさんが、あんまり可哀かわいそうだ……。おつうさんに……今日きょうのことはなしたら、おつうさんは、よけいに病気びょうきがわるくなっちまうにきまってら」
「――だからこういってくれ。所詮しょせん兵法修行へいほうしゅぎょうのうちは、うたとて、おたがいの不為ふため多艱たかんち、忍苦にんくもとめ、自分じぶん百難ひゃくなんたにそこへててみねば、その修行しゅぎょうひかりはついてないのだ。……なあ城太郎じょうたろう、おまえもまた、そのみちいまんでかねば一人前いちにんまえ兵法者へいほうしゃにはなれまいぞ」
「…………」
 きじゃくっている城太郎じょうたろう姿すがたれば、武蔵むさしはまた可憐いじらしくもなって、そのあたまをふところへせ、
「いつてるかれないのが兵法者へいほうしゃつね、おまえも、わしがあとは、よいさがせよ。おつうさんにも、このままわぬほうが、すえになってみれば、あのひとしあわせになり、武蔵むさし気持きもちも、そのときには、よくわかってくるはずだ。……おお、そこのへいうちしているあかりが、おつうさんのいる部屋へやか。……おつうさんもさみしかろ。さ、はやくおまえももどってねむるがいい」

 無茶むちゃはいうが、城太郎じょうたろうにも、武蔵むさし苦衷くちゅう半分はんぶんぐらいは、なんとなくわかっているらしいのである。きじゃくりながらも、ねた背中せなかけているのは、一頃ひところよりはもの理解りかいすこしついてきた証拠しょうこで、おつうさんには可哀かわいそうだし、お師匠様ししょうさまにはこれ以上いじょう無理むりもいえないし――と往生おうじょうしている童心どうしん嗚咽おえつねてえるのだった。
「じゃあ、お師匠様ししょうさま
 手放てばなしのかおを、不意ふいと、武蔵むさし振向ふりむけると、最後さいごいちすがりつくように、
「――修行しゅぎょうがすんだら、そのときは、おつうさんともなかよくうの。え、え。お師匠様ししょうさま修行しゅぎょうが、もうこれでいいと、いうときたら」
「それはもう、そうなればなあ……」
「それは何日いつ?」
何日いつともいえぬ」
二年にねん?」
「…………」
三年さんねん?」
修行しゅぎょうみちにはてがない」
「じゃあ、一生涯いっしょうがいもおつうさんとわないつもり」
「わしに天稟てんぴんがあれば、みちたっするもあろうが、わしに素質そしつがなければ、生涯しょうがいかかってもまだこのままの鈍物どんぶつでいるかもれん。――それになによりは、目前もくぜんしていることがある。――んで人間にんげんがなんで、これからはなこうろうとするわか女子おなごと、ゆくすえの約束やくそくなどをちかえよう」
 武蔵むさしおもわずそのてんまでくちずべらすと、城太郎じょうたろうには、そこの要点ようてんはまだよく理解りかいがたいものとえ、すこし怪訝けげんそうに、
「だから、……お師匠様ししょうさま、そんな約束やくそくなんかしないことにして、ただおつうさんとえばいいじゃないか」
 と、したりかおにいう。
 武蔵むさし城太郎じょうたろうたいして、いえばいうほど自身じしんのうちに矛盾むじゅんかんじ、まよいをおぼえて、くるしくなった。
「そうはゆかないのだ。おつうさんもわか女子おなご武蔵むさしわかおとこ。しかも、おまえにいうのもずかしいが、えばわしはおつうさんのなみだけてしまう。きっと、おつうさんのなみだいまかた決心けっしんくずされてしまう……」
 柳生やぎゅうしょうで、おつう姿すがたながらげてったあのとき回避かいひと――今夜こんやかれ気持きもちとでは、おなかたちにあらわれても、武蔵むさしこころ内面ないめんには、おおきな相違そうい自覚じかくしていた。
 花田橋はなだばしときでも、柳生谷やぎゅうだにときでも――以前いぜんはただ、青雲せいうんにあこがれる壮気そうき覇気はき――また潔癖けっぺきまっしぐらな道心どうしんが、みずはじくように、女性じょせいじょう反撥はんぱつしたにぎなかったが、いま武蔵むさしには、元来がんらい野性やせいが、徐々じょじょ智育ちいくされてくるにつれて、そこから一面いちめんよわさも当然とうぜんおぼえてつつあった。
 またとうまないうまれてきた生命いのちとうとさをっただけでも、それだけこわさをってたのである。けんきる人間以外にんげんいがいに、種々しゅじゅきるみち辿たどっている人生じんせい視野しやっただけでも、それだけ、ひとりよがりの自負心じふしんがれているのである。「おんな」というものについても武蔵むさしは、その魅力みりょくを、吉野よしのているし、自分じぶんという実体じったいなかからも多分たぶんに「おんな」に人間にんげんのあらゆる惑情わくじょうりかけている――でいま武蔵むさしは、その対象たいしょうおそれるよりも、自分じぶんこころおそれるのだった。――ことにその対象たいしょうひとがおつうである場合ばあいにおいて、かれには、それにてそうな自信じしんもないし――また、彼女かのじょ一生いっしょうというものをかんがえずに、彼女かのじょかんがえることもできなかった。
 しくしくといている城太郎じょうたろうに、
(わかったか……)
 と、武蔵むさしのことばがみみのそばにきこえていたので、城太郎じょうたろうひじかおおさえていたが、ふとそのかおげると、もうかれまえにはもやのこめたあつやみしかえなかった。
「――あッ、お師匠様ししょうさまっ」
 ばたばたと城太郎じょうたろうは、なが築地ついじかどまではしってった。