朗読「217風の巻59.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 28秒
三
遮るもののない以上、武蔵の方で立ち止る理由もない。
大股な彼の足が、もう編笠茶屋の前も過ぎて、百歩も先をぐんぐんと歩いて行く頃になって、
「やるなッ――」
と、吉岡方の中から一人が叫んだようであった。
すると、声に合せて、
「やるなっ」
「やるな!」
同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後ろから前の方へと八、九名の影が駈け廻り、
「――武蔵待てッ」
と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。
――と、武蔵は、
「何かっ?」
と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとともに身を横へずっと退いて、道ばたの小屋を背にして突っ立った。
小屋の横に、巨きな材木が枕木に横たわっているし、辺りに大鋸屑が積もっているなどから見ても、これは木挽職人の寝小屋らしかった。
物音に、
「喧嘩か」
と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見ると、
「わっ」
あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をかって、それなり布団でもかぶってしまったのか、しいんとして、中に人がいるとも思わせない。
吉岡方のものは、野犬が野犬を募るように、指笛を鳴らしたり、呼号をあげたりして、見る間にここへわらわらと集まって来た。こういう折の人数は、二十人が四十人にも、四十人が七十人にも、多く見えるものであるが、正確にかぞえても、三十人以下ではなかった。
真っ黒に、武蔵を取りまいた。
いや、その武蔵が、背中の一方を木挽小屋につけているので、その小屋もろとも、取り囲んだという形である。
「…………」
武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状態が、どう変化してかかって来るか――それをじっと見ているような眸であった。
三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取って来る機先を観てしまうことは、そう難しいことではなかった。
案の如く、いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなものはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかたまるまでのしばらくの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠巻きにしながら口々に罵り、中には、市井のならずものみたいに、
「……野郎」
とか、また、単に、
「青二才奴」
とか呻いて、自分たち個々の弱さを、いたずらに示すに過ぎない虚勢のまま、ややしばらく、桶のように円くなって、武蔵を囲んでいた。
最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その間、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。大勢の顔の中で、どれとどれが手強いか、どの辺が脆いか、ぴかぴか光る眼つきを拾って、およそ心に備えておく余地すらあった。
「拙者に、待てといわれたのは誰だ。いかにも、拙者は武蔵だが」
彼が、見渡していうと、
「われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ」
「では、吉岡の御門下か」
「いうまでもなかろう」
「御用事とは」
「それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。――武蔵、支度はいいか」
四
「支度?」
ちらと唇が歪む。
鉄の桶みたいに、彼を囲んでいる殺気は、彼の白い歯から洩れた冷笑に、ふと毛穴の緊まるようなものに面を吹かれた。
武蔵は、語気を揚げて、すぐいいつづけた。
「武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。――だが、待て、一言聞いておきたい。各々はこの武蔵を、暗殺したいか、正当に討ちたいか」
「…………」
「意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう」
「…………」
言葉のうちにでも、勿論、武蔵の眼――またその体に斬り込める隙が見出せたなら、囲りの刃は穴から水の噴くように、彼の虚へ向って衝いて出るはずであるが、そういう者もなく、数珠のような沈黙に縛られている大勢のうちから、
「いわずとも知れたこと!」
と、大喝して、武蔵のことばに答えた者がある。
ぎらっと、武蔵はその顔へ眸を射向けた。年輩、態度、この中では、吉岡方の然るべき者らしく思える。
それは、高弟中の御池十郎左衛門だった。十郎左衛門は、自分がまず、初太刀の皮膜を切ろうとするものらしく、ズズと、摺り足に身をすすめて、
「師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。――不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという狼藉ではない、師の冤をそそぎ奉る遺弟の弔い合戦だわ。武蔵っ、不愍だが、汝の首はわれわれが申しうけたぞ」
「おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の情誼を口にし、武道の冤を雪ごうという考えなれば、なぜ、伝七郎殿の如く、また清十郎殿の如く、堂々と、この武蔵へすじみち立てて正当な試合に及ばれぬか」
「だまれっ! 汝こそ、今日まで居所をくらまして、われわれの眼がなくば、他国へ逃げのびようといたしながら」
「卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ」
「見つかッたればこそであろうが」
「なんの、姿を晦ます心なら、これしきの場所、どこからでも」
「然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか」
「いずれ、各々から挨拶はあるものと存じていた。しかし、かような繁華の町中で、人を騒がせ、野獣か、無頼者のような、理不尽な争いを演じては、われら、一個の名ばかりか、武士という者すべての恥さらし。各々の申さるる師弟の名分も、却って、世の笑いぐさではあるまいか、師へ対しても恥のうわ塗りではござるまいか。――さもあらばあれ、師家は絶滅、吉岡道場は離散、この上、恥も外聞もあろうかと、武門を捨てた気とあらばなにをかいおう、武蔵五体と両刀のつづく限りは、相手になる、死人の山を築いてみせる」
「なにをッ」
十郎左衛門ではない。十郎左衛門の横あいから一人が、こう肱の弦を切りかけると、どこかで、
「――板倉が来るぞっ」
呶鳴った者がある。