213・宮本武蔵「風の巻」「伽羅の君(1)(2)」


朗読「213風の巻55.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 30秒

伽羅きゃらきみ

 爛漫らんまんと、ろうはいったが、まだ三筋みすじ柳町やなぎまちに、買手かいてどものかげえないよいくちであった。
 扇屋おうぎやわかものは、何気なにげなく入口いりぐち人影ひとかげてぎょッとした。大暖簾おおのれんのあいだからくびれ、いえなかをキョロキョロのぞいているふたつのまなこおどろいたのである。暖簾のれんすそきたな草履ぞうり木剣ぼっけんさきえたので、なにか途端とたんに、かんちがいをしたものらしく、あわててほか男達おとこたちをよびてようとすると、
「おじさん」
 と城太郎じょうたろうがはいってて、いきなりこうたずねた。
「ここのうちに、宮本武蔵様みやもとむさしさまてるだろ。武蔵様むさしさまは、おいらのお師匠ししょうさまだから、城太郎じょうたろうたっていえばわかるんだけれど、取次とりついでくれないか。それでなければ、ここへんでくれないか」
 扇屋おうぎやわかものは、子供こどもわかってほっとしたようなかおをした。けれど、さきにぎょッとしたおどろきの反動はんどうがむかっと、そのかおすじてて、
「なんだてめえは。ものもらいか。かぜか。――武蔵様むさしさまなんて、そんなものは、いねえいねえ、よいくちから暖簾先のれんさきへ、うすぎたねえ風体ふうていしてはいってやがって、ササけ」
 えりがみをつまんで、そとってこうとすると、城太郎じょうたろうは、虎河豚とらふぐのように勃然ぼつぜんおこって、
「なにするんだ、おいらは、お師匠様ししょうさまいにたんだぞ」
「ばか野郎やろうてめえ師匠ししょうだかなんだからねえが、その武蔵むさしという人間にんげんのために、おとといから大迷惑だいめいわくをしているところだ。今朝けさも、いまがたも、吉岡道場よしおかどうじょう使つかいがて、それにもいってやったとおり、もう武蔵むさしはここにはとっくにいねえのだ」
「いないなら、大人おとなしく、いないといえばわかるじゃないか。なんだって、おいらのえりくびをつかむんだ」
暖簾のれんくびんで、気持きもちのわるいなかのぞいていやがるから、おれはまた、吉岡道場よしおかどうじょうまわものたかとおもって、ひやりとしたじゃねえか。忌々いまいましい小僧こぞうが」
「びっくりしたのは、そっちの勝手かってじゃないか、武蔵様むさしさまは、何時頃いつごろ、そしてどこへかえったのか、おしえてくれ」
「こいつ、さんざんひとあくをついていながら、今度こんどおしえてくれなんて、むしのいいことをかしやがる。そんなばんをしているか」
らなきゃいいから、おいらの襟首えりくびはなせ」
「ただははなさねえ、こうしてはなしてやる」
 みみつよって、一廻ひとまわ振廻ふりまわして暖簾のれんそとはなそうとすると、城太郎じょうたろうは、
いたい、いたい、いたい」
 さけびながらこしおとし、したから木剣ぼっけんいて、わかおとこあごをふいになぐりつけた。
「あっ、このチビ」
 前歯まえばられて、まったあごおさえながら、かれ暖簾のれんそとまでいかけてゆくと、うろたえた城太郎じょうたろうは、
だれてくれーッ。このおじさんがいけないよっ」
 往来おうらいへ、こう大声おおごえで、危急ききゅううったえながら、っていた木剣ぼっけんは、その悲鳴ひめいとは反対はんたいに、いつか小柳生城こやぎゅうじょう猛犬もうけん太郎たろうなぐころしたようなちからで、きざま、ぐわんとおとこ脳天のうてんっていた。
 いたような、ほそうめきを鼻血はなぢといっしょにらして、わかおとこやなぎしたへヘロヘロとたおれた。
 ――と、むこがわ格子先こうしさきていた客引きゃくひおんなが、のきならびの格子こうしむかってさけんだ。
「あらっ、あらっ、あの木刀ぼくとうった小僧こぞうが、扇屋おうぎやわかものころしてげたっ」
 すると、夜中よなかのように人影ひとかげのなかった往来おうらいに、わらわらとものかげがみだれて、
人殺ひとごろし――」
ひところされた」
 と、なまぐさいこえよいかぜにながれた。

 喧嘩沙汰けんかざた年中ねんじゅうのことだし、なまぐさいものを、秘密裡ひみつりにまた迅速じんそくに、処理しょりしてしまうことにもこの遊廓さとものれていた。
「どこへげた?」
「どんな小僧こぞうか」
 と、血相けっそうこわおとこたちが、さがしまわっていたのも一瞬いっしゅんのことで、ほどなく、編笠あみがさすがたや伊達だてすがたして、れるむしのように、ぞろぞろと、ながんで買手かいてどもは、もう紅燈こうとうしたに、そんな事件じけんが、半刻はんときまえおこなわれたといううわさすららなかった。
 三筋みすじ往来おうらいは、けるほど雑鬧ざっとうしてきたが、うらは、くら横町よこちょうだの、だのはらだのが、しいんとしていた。
 どこにかくれていたか、城太郎じょうたろうころあいをすまして、くら路地ろじからいぬみたいにした。そしていっさんにくらほうむかってけた。
 そのまま、ここのやみ世間せけんやみへつづいているのかと単純たんじゅんおもっていたのである。ところが、一丈いちじょうもあるさくかれあたってしまった。そのさくは、この六条柳町ろくじょうやなぎまち全部ぜんぶ城郭じょうかくのように堅固けんごにとりかこんでいる。さきとがらした焼丸太やきまるたいまわしてあって、いくらそれに沿ってあるいてみても、そとられる木戸きど隙間すきまもなかった。
 すこあるくと、あかるい町尻まちじり往来おうらいてしまうので、城太郎じょうたろうはまたくらいほうへもどってた。すると、かれ挙動きょどう注意ちゅういしながら、あとからいておんなが、
こども。……こども
 しろまねいた。
 最初さいしょ――城太郎じょうたろううたがわしげなひからして、しばらく、やみなかちどまっていたが、やがてのそのそもどってて、
「おいらのことかい」
 おんなしろかおに、害意がいいのないことをたしかめると、かれはまた一歩いっぽちかづいてきながら、
「なんだい?」
 と、いった。
 おんなはやさしく、
「おまえかい、夕方ゆうがた扇屋おうぎや入口いりぐちて、武蔵様むさしさまわせてくれといっていたというは」
「あ、そうだ」
城太郎じょうたろうというんでしょう」
「うん」
「じゃあ、そっと、武蔵様むさしさまわせてあげるからこちらへおいで」
「ど、どこへ」
 と、今度こんどは、城太郎じょうたろうしりごみしてしまう。そこでおんなが、かれ安心あんしんがゆくように説明せつめいしてやると、城太郎じょうたろうは、
「じゃあおばさんは、吉野太夫よしのたゆうっていうひと召使めしつかいなの」
 地獄じごくほとけったようなかおせ、はじめてこころをゆるしたようにいてった。
 その引船ひきふねのことばによると、夕方ゆうがたさわぎをみみにすると、吉野太夫よしのたゆうはいたく心配しんぱいして、もしつかまったら、自分じぶんくちをきいてたすけてやるからすぐらせてるように――もしまた、どこかにひそんでいるのをつけたら、そっと、裏庭うらにわ木戸きどから、れい田舎いなかへ、みちびれて、武蔵むさしわせてやるようにという吩咐いいつけをうけてたのだという。
「もう、心配しんぱいおしでない。吉野様よしのさまがおこえをかけてくださりさえすれば、このさととおらぬことはないのだから」
「おばさん、おいらのお師匠様ししょうさまはほんとにいるんだろうね」
「いないものを、なんでおまえをさがして、こんなところへれてましょう」
「いったいこんなところでなにしてるんだろ?」
「なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこにえる田舎家いなかやうちにおいでになるから、隙間すきまからのぞいてごらん。……では、わたしは彼方むこうのお座敷ざしきがいそがしいから」
 引船ひきふね彼方あなたにわ植込うえこみへ、しのびやかに、かげをかくした。