211・宮本武蔵「風の巻」「春を病む人(3)(4)」


朗読「211風の巻53.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 55秒

「いつも、城太じょうたさん、蜜柑みかんきじゃないの?」
きだけれど」
「どうして、きょうは、べないの」
「どうしてでも」
「わたしがべないから?」
「え。……ああ」
「じゃあ、わたしもべるから……城太じょうたさんも、おあがり」
 おつうは、かお仰向あおむけになおして、ほそゆびで、蜜柑みかんのふくろの繊維すじっている。城太郎じょうたろうは、こまったかおして、
「ほんとはね、おつうさん、おいら、途中とちゅうでもう、たくさんべてたんだよ」
「……そう」
 かわいているくち蜜柑みかんひとふさをふくみながら、おつうはうつつのようにいった。
沢庵たくあんさんは?」
「きょうは、大徳寺だいとくじったんだって」
「おととい、沢庵たくあんさんは、よそのいえで、武蔵様むさしさまったんですってね」
「アア。いた?」
「え。……そのとき沢庵たくあんさんは、わたしがここにいることを、武蔵様むさしさまはなしたかしら」
はなしたろ、きっと」
「そのうちに、武蔵様むさしさまをここへんでやると、沢庵たくあんさんは、わたしにおっしゃったけれど、城太じょうたさんには、なんにもいっていなかった?」
「おいらには、なんにもそんなことはいわないよ」
「……わすれているのかしら」
かえってたら、そういってみようか」
「ええ」
 と、彼女かのじょはじめて、ニコと、まくらうえからみをけて、
「……だけど、くならわたしがいないところでね」
「おつうさんのまえいちゃいけないの」
「きまりがわるいから」
「そんなことないさ」
「でも、沢庵たくあんさんは、わたしの病気びょうきを、武蔵病むさしびょうだなんていうんだもの」
「アラ、いつのにか、べちゃったぞ」
「なに、蜜柑みかん
「もひとべない」
「もう、たくさん、美味おいしかったわ」
「きっと、これから、なんでもべられるよ。こんなときに、武蔵様むさしさまれば、きっと、すぐきられてしまえるんだがな」
城太じょうたさんまで、そんなことをいって」
 城太郎じょうたろうとこんなはなしをしているうちは、熱症ねつからだいたさもわすれている彼女かのじょであった。
 そこへ、烏丸家からすまるけ小侍こざむらいが、
城太じょうたどの、いますか」
 と、えんそとからいう。
「はい、おります」
 こたえると、
沢庵たくあんどのが、あちらでおびです。すぐおいでなさい」
 とげてった。
「おや、沢庵たくあんさん、かえってたのかしら」
ってごらんなさい」
「おつうさん、さびしくない」
「いいえ」
「じゃあ、ようがすんだら、すぐるからね」
 枕元まくらもとを、ちかけると、
城太じょうたさん……あのこと、わすれずに、いてね」
「あのことって?」
「もうわすれたの」
「あ、武蔵様むさしさまが、いつここへるのかって、それを催促さいそくすることだね」
 おつうせているほおに、あかがかすかにさした。そのかお夜具やぐえり半分はんぶんかくしながら、
「いいこと、わすれてはだめですよ、きっとね、きっといてね」
 と、ねんした。

 沢庵たくあん光広みつひろ居間いまて、光広みつひろなにはなしているおりだった。
 そこのふすまけて、
沢庵たくあんさん、なにかよう?」
 城太郎じょうたろううしろにつと、
「まあ、すわりなさい」
 と沢庵たくあんがいい、光広みつひろは、城太郎じょうたろう不作法ぶさほうゆるしている眼元めもとで、にやにやながめていた。
 そばすわるとすぐ、城太郎じょうたろう沢庵たくあんむかっていった。
「あのね、沢庵たくあんさんとこへ、泉州せんしゅう南宗寺なんそうじから、沢庵たくあんさんみたいなぼうさんが、急用きゅうよう使つかいにってるよ。んでてあげようか」
「いや、そのことなら、今聞いまきいた」
「もうったの」
「ひどい小僧こぞうだと、あの使つかいがこぼしていたぞ」
「どうして」
「はるばるものを、牛小屋うしごや案内あんないして、ここでっておれといったまま、てておいたというじゃないか」
「でもあのひとが、自分じぶんから、どこか邪魔じゃまにならないところへいてくれといったからさ」
 光広みつひろは、ひざすって、
「ハハハハハ、牛小屋うしごやれておいたのか、それはひどい」
 と、わらった。
 しかし、すぐ真顔まがおかえって、
「では御坊ごぼうには、泉州せんしゅうもどらずに、ここからすぐ但馬たじま御発足ごほっそくあるか」
 と、沢庵たくあんむかってく。
 沢庵たくあんはうなずいて、なにぶん、がかりな書面しょめん内容ないようであるから、ぜひそうしたいとこたえ、支度したくといってもべつだんないでもあるし、明日あしたといわずに、いますぐおわかもうしたいという。
 ふたりのはなし様子ようすを、城太郎じょうたろう不審いぶかって、
沢庵たくあんさん、たびつの」
きゅう国元くにもとかねばならぬことになってな」
「なんのよう?」
故郷くににいる老母ろうぼついて、今度こんどはだいぶ重態おもいというがかりならせだから」
沢庵たくあんさんにも、おっさんがあったの」
「わしだって、またからうまれたではないよ」
今度こんどはいつかえってるつもり」
はは容子ようす次第しだいで」
「すると……こまったなあ……沢庵たくあんさんがいなくなっちゃうと」
 と、城太郎じょうたろうはそこで、おつう気持きもちおもったり、また彼女かのじょと、自分じぶんさきなどもかんがして、心細こころぼそくなったものか、
「じゃもう、沢庵たくあんさんとはえなくなるの?」
「そんなことはない。またきっとえる。おまえ達二人たちふたりのことは、おやかたへもようおたのみしてあるから、おつうさんも、くよくよせずに、はやからだ丈夫じょうぶにするよう、おまえも勇気ゆうきをつけてやってくれ。あの病人びょうにんくすりよりも、こころちからがほしいのだ」
「それが、おいらのちからでは駄目だめなんだよ。武蔵様むさしさまてくれないとなおらないぜ」
こまった病人びょうにんだのう。おまえもんでもないものと、この道連みちづれになったものだ」
「おとといのばん沢庵たくあんさんは、どこかで武蔵様むさしさまったんだろ」
「ウム……」
 光広みつひろかおあわせて、沢庵たくあん苦笑くしょうをながした。どこでと、んで場所ばしょかれてはこまりそうなかおつきであったが、城太郎じょうたろう質問しつもんは、そういう枝葉しようにはれず、
武蔵様むさしさまは、いつここへるの。沢庵たくあんさんが、武蔵様むさしさまをここへんでやるといったもんだから、おつうさんは、毎日まいにち、そればかりってるじゃないか。ねえ沢庵たくあんさん、おいらのお師匠ししょうさまは一体いったいいまどこにいるのさ」
 その住所ところさえわかれば、いますぐにでも、自分じぶんむかえにきたそうな城太郎じょうたろう質問しつもんであった。
「ウム……あの武蔵むさしのことか」
 あいまいに、こういったが、沢庵たくあんもその武蔵むさしとおつうとをわせてやろうという、親切しんせつわすれてしまっているわけではさらさらない。今日きょうもそれをこころにかけて、大徳寺だいとくじかえみち光悦こうえついえ立寄たちより、武蔵むさし在否ざいひたずねてみたところ、光悦こうえつこまったかおしていうには、どういうものかおとといの晩以来武蔵ばんいらいむさしはいまだに扇屋おうぎやからもどってない。はは妙秀尼みょうしゅうにあんじるのではやかえしてくれるように、いま吉野太夫よしのたゆう手紙てがみつかわして、たのんでやったところです――というかれはなしなのである。