23・宮本武蔵「地の巻」「縛り笛(7)(8)(9)」


朗読「地の巻23.mp3」36 MB、長さ: 約15分31秒

 しろおもてをやや横向よこむきにし、おつうはおもむろにふえかまえた。歌口うたぐち湿しめりをあたえて、まずこころ調しらべからととのえているすがたは、いつものおつうともえなかった。げいちからといおうか威厳いげんがあった。
「では……」
 と、沢庵たくあんあらたまり、
不束ふつつかなすさびですが」
「…………」
 沢庵たくあんは、黙然もくねんとうなずく。
 呂々りょりょと、ふえりはじめた――
 彼女かのじょほそくてしろゆびのふしが、ひとひとつ、きている小人こびとのように、ななツのあなんでおどる。
 ひくい――みずのせせらぎにもに、沢庵たくあん自分自身じぶんじしんが、みずとなって、谷間たにまにせかれ、あそんでいるようなおもいにまれた。かんおとのあがるときは、たましい宙天ちゅうてんさらわれて、くもたわむれる心地ここちがするし――とおもえば、またこえてんひびきとがして、颯々さっさつ無常むじょうをかなしむ松風まつかぜかなでとかわってゆく。
 じっとまなこをとじて、れているうちに、沢庵たくあんは、むかし三位博雅卿さんみひろまさきょうが、朱雀門すじゃくもんつきに、ふえをふいてあるいていたところ、楼門ろうもんうえおなじようにふえ合調あわものがあったので、はなしかけてふえりかえ、もすがら二人ふたりしてきょうじょうじてかしたがあとけばそれはおに化身けしんであったという、名笛めいてき伝説でんせつおもさずにいられなかった。
 おにですら音楽おんがくにはうごかされるという。まして、この佳人かじん横笛よこぶえに、五情ごじょうにもろい人間にんげんが、感動かんどうしないでおられようか。
 沢庵たくあんしんじた。また、きたくなった。
 なみだこそこぼさないが、かれかおひざあいだへだんだんにうずまっていた。そのひざを、われともなくかたきしめていた。
 焚火たきびは、トロトロと、二人ふたりのあいだにおとろえてたが、おつうほお反対はんたいあかくなった。自分じぶんのふくおと三昧さんまいとなって、彼女かのじょふえか、ふえ彼女かのじょかわからない。
 はは何処いずこ? ちち何処いずこ? とそのふえちゅうけて、みのおやんでいるかのようでもあった。また――自分じぶんてて他国たこくにいる無情むじょうおとこに、かくも、裏切うらぎられた処女おとめごころはいたきずついていることを、纏綿てんめんうらんでいるようである。
 なお、なおさらのこと。
 このさき――この傷手いたでった十七じゅうなな処女おとめは――おや身寄みよりもない孤児みなしごは――どうしてき、どうしてひとなみなおんなきがいを、ゆめみてかれるだろうか。
 そのるせなさを嫋々じょうじょううったえている。げい陶酔とうすいしてか? ――あるいは、そうした感情かんじょうのようやくみだれかけてたものか、おつう呼吸いきがややつかれをあらわし、かみえぎわに、うすあせがにじみえてたかとおもころ彼女かのじょほほにぼろぼろとなみだのすじがしろえがかれていた。
 ながきょくはまだおわらない。喨々りょうりょうと、淙々そうそうと、むせかぎりをむせんで、とどまるところをらないもののようである。
 すると……
 ふとくらくなりかけた焚火明たきびあかりから三間さんげんほどさきくさむらで、なにか、ごそりと、けだものでもったような物音ものおとがした。
 沢庵たくあんは、ふとくびもたげて、そのくろ物体ぶったいを、じっとつめていたが、しずかにをあげて、
「――そこのおひときりなかではつめたかろうに、遠慮えんりょなく、のそばへって、おきなされ」
 と、はなしかけた。
 おつうは、あやしんで、ふえをやめ、
沢庵たくあんさん、なにを、ひとごとをいっているのですか」
「――らぬのか、おつうさん、先刻さっきから、ソレそこに、武蔵たけぞうて、そなたのふえいているじゃないか」
 と、ゆびさした。
 何気なにげなく、ひょいといたおつうは、途端とたんに、われれにかえって、
「きゃッ――」
 と、そこの人影ひとかげむかって、横笛よこぶえげつけた。

 きゃッとさけんだおつうよりも、かえっておどろいたらしいのは、そこにうずくまっていた人間にんげんであった。くさむらから鹿しかのようにって、ぱっと彼方かなたそうとする。
 沢庵たくあんは、予期よきしなかったおつうのさけびに、折角静せっかくしずかにあみすくいかけていたさかななぎさからがしたように、これも、あっとあわてて、
「――武蔵たけぞう?」
 と、満身まんしんちからんだ。
たッしゃれ!」
 つづいてげた言葉ことばにも、あっするようなちからがあった。声圧せいあつというか、声縛せいばくというか、そのままりほどいてかれないちからがある。武蔵たけぞうは、あしくぎたれたようにいた。
「? ……」
 らんらんとひかが、じっと、沢庵たくあんかげとおつうのほうをていた。猜疑さいぎにみち、殺気さっきにみち、殺気さっきえているである。
「…………」
 沢庵たくあんはそれっきりだまっていた、むねりょううでしずかにむ、そして、武蔵たけぞうにらんでいるかぎかれ相手あいてつめているのだ、――いきかずまでおなじようにあわせて呼吸こきゅうしているように。
 そのうちに、沢庵たくあんのまわりに、なんともいえないしたしみぶかいしわなごやかにると、んでいたうでいて、
「おでよ」
 と、かれから手招てまねきした。
 すると武蔵たけぞうは、途端とたんばたきをして、異様いよう表情ひょうじょうをそのくろかおにあらわした。
「ここへぬか。――て、一緒いっしょあそばぬか」
「? ……」
さけもあるぞ、ものもあるぞ、わしらはおぬしのてきでもかたきでもない。をかこんで、はなそうじゃないか」
「…………」
武蔵たけぞう。……おぬしはきつい勘違かんちがいをしておりはせぬか。もあり、さけもあり、ものもあり、またあたたかいなさけもめばあるなかだよ。おぬしは、このんで自身じしん地獄じごくて、このゆがんでておるのじゃろ。……理窟りくつはよそう。おぬしのとなれば、理窟りくつなどみみにははいるまい。さあ、この焚火たきびのそばへてあたれ。……おつうさん、先刻さっきいもなかへ、冷飯ひやめしをいれて、芋雑炊いもぞうすいでもつくろうじゃないか。わしもはらがへったよ」
 おつうは、なべをかけ、沢庵たくあんさけつぼであたためる。二人ふたりのそういう平和へいわ様子ようすさだめて、武蔵たけぞうははじめて安心あんしんたらしく、一歩一歩いっぽいっぽちかづいてたが、今度こんどなに肩身かたみのせまいような羞恥はにかみにとらわれて佇立たたずんでいるのであった。沢庵たくあんは、ひとつのいしころをのそばへころがしてて、
「さあ、おかけ」
 と、かたをたたいた。
 武蔵たけぞうは、素直すなおこしかけた。だがおつうかれかおあおぐことが出来できなかった。くさりのない猛獣もうじゅうまえにいるような気持きもちだった。
「ウム、えたらしい」
 なべのふたをって、沢庵たくあんは、はしさきいもした。むしゃむしゃ自分じぶんくちれて、こころみながら、
「ホ。やわらかにえたわい。どうじゃ、おぬしもべるか」
「…………」
 武蔵たけぞうはうなずいて、はじめて、ニッとしろせた。

 おつう茶碗ちゃわんってわたすと、武蔵たけぞうは、ふうふうと、あつ雑炊ぞうすいをふいてべる。
 はしっているがふるえている、茶碗ちゃわんのふちへがガツガツとる。いかに、えていたことか、あさましいなどは常日頃つねひごろのことばである。おそろしいほど真剣しんけん本能ほんのう戦慄せんりつであった。
美味うまいのう」
 沢庵たくあんは、さきはしいて、
さけはどうじゃ」
 と、すすめる。
さけみません」
 武蔵たけぞうこたえた。
「きらいか」
 というと、武蔵たけぞうくびった。幾十日いくじゅうにちやまごもりに、かれつよ刺戟しげきえないらしかった。
「お蔭様かげさまで、あたたかになりました」
「もうよいのか」
十分じゅうぶんに――」
 武蔵たけぞうは、おつう茶碗ちゃわんかえして――
「おつうさん……」
 と、あらためてんだ。
 おつうは、うついたまま、
「はい」
 きとれないようなこえでいう。
「ここへ、なにしにたのか。ゆうべも、このへんに、えたが」
 武蔵たけぞう質問しつもんに、おつうはどきっとした。どうこたえようかとおののいていると沢庵たくあんかたわらから無造作むぞうさに、
じつはの、おぬしを召捕めしとりにのぼってたのじゃ」
 と、いって退けた。
 武蔵たけぞうは、かくべつおどろきもしなかった。黙然もくねんくびれて――むしろ不審ふしんそうに二人ふたりかおくらべるのだった。
 沢庵たくあんは、ここぞとひざけて、
「どうじゃな武蔵たけぞうおなつかまるものならばわしの法縄ほうじょうしばられぬか、国主こくしゅおきてほうだし、ほとけいましめもほうだが、おなほうほうでも、わしのしばほう縄目なわめのほうがまだまだ人間にんげんらしいあつかいをするぞよ」
いやだ、おれは」
 奮然ふんぜんくび武蔵たけぞう血相けっそうを、なだめて、
「まあくがよい。舎利しゃりになっても反抗はんこうしてやろうという、おぬしの気持きもちはわかる。だが、てるか」
てるかとは」
にくいとおも人間にんげんどもに――領主りょうしゅ法規ほうきに――また自分自身じぶんじしんに、ちきれるか」
けだ! おれは……」
 うめくようにいって、武蔵たけぞうは、悲惨ひさんかおきたそうにしかめた。
最後さいごになったら、にするばかりだ。本位田ほんいでんばばや、姫路ひめじ武士さむらいどもや、にくやつらを、ッてッて、くッて」
あねは、どうする」
「え?」
日名倉ひなぐら山牢やまろうにとらわれているおぬしのあね――おぎんどのはどうするかな?」
「…………」
「あのだてのよい、弟思おとうとおもいなおぎんどのを……。いや、そればかりか、播磨はりま名族赤松家めいぞくあかまつけ支流しりゅう平田将監ひらたしょうげん以来いらい新免しんめん無二斎むにさい家名かめいをおのれは、どうするか」
 武蔵たけぞうは、つめびたくろで、かおをおおって、
「……しっ、らんっ。……もう、そ、そんなこと、どうなるものか」
 とがったかたおおきくふるわせ、そして潸然さんぜんいてさけんだ。
 すると、沢庵たくあん拳骨こぶしをかためて、不意ふい武蔵たけぞうかおよこからちからまかせになぐり、
「この、馬鹿者ばかものっ!」
 と、大喝だいかつした。
 あっと、をのまれた武蔵たけぞうが、よろめくところを、沢庵たくあんしかかって、さらに、そのかおへもうひと鉄拳てっけんおろしながら、
不所存者ふしょぞんものめッ、不孝者ふこうものめ。おのれのちちはは、また先祖せんぞたちにかわって、この沢庵たくあん折檻せっかんしてやる。もうひとつこのこぶしらえ! いたいか、いたくないか」
「ウームいたい……」
いたければまだすこし人間にんげんみゃくがあるのじゃろう。――おつうさん、そこのなわをおよこし。――なにはばかっているか? 武蔵たけぞうはもうわしにしばられると観念かんねんしているのだ。それは、権力けんりょくなわではない。わしのしばるのは、慈悲じひなわだ。――なにおそれたり不愍ふびんがッたりすることがあろうぞ! はやくよこしなさい」
 かれた武蔵たけぞうは、をつむっていた。かえせば、沢庵たくあんからだぐらい、まりになってぶであろうに、そのあしも、ぐったりくさうえばしたまま――そして、じりからとめどもなくなみだをながして。