212・宮本武蔵「風の巻」「春を病む人(5)(6)」


朗読「212風の巻54.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 22秒

「ホ。……では武蔵むさしとやらいうあのよるおとこは、あれきり吉野太夫よしのたゆうもとからかえってぬのか」
 光広みつひろいてまなこをみはった。
 なかばは、意外いがいなこととして、なかばはかる嫉妬しっと手伝てつだって、大仰おおぎょうにそういったのである。
 沢庵たくあん城太郎じょうたろうのてまえ、おおくをいわなかったが、ただ、
「あれもやはり、平凡へいぼんな、つまらん人間にんげんでしかないとみえる。とかくわかいうち天才てんさいらしくえるものほど、末当すえあてにならないものだ」
「したが、吉野よしのかわりものじゃなあ。――どこがようて、あんなきたな武骨者ぶこつものに」
吉野よしのにせよ、おつうにせよ、おんな気心きごころのみは沢庵たくあんにもしかねる。わしのからはみなひとしい病人びょうにんとしかおもえぬが、武蔵むさしにもそろそろ人間にんげんはるおとずれてたのでござろう……これからがほんとの修行しゅぎょうあぶないのはけんよりは女子じょしだが、他人たにんちからでどうなるものではなし、っておくしかあるまいて」
 ひとごとのようにつぶやいてから、沢庵たくあんはふとたびそらこころいそぎ、光広みつひろむかって、あらためてわかれをげたうえ、なお当分とうぶんあいだではあるが、病中びょうちゅうのおつうと、城太郎じょうたろうとをくれぐれもやかたたくして、それからもなく烏丸家からすまるけもん飄然ひょうぜんった。たび朝立あさたつものとめているのは、普通ふつう旅行者りょこうしゃのことであって、沢庵たくあんには朝立あさだちも夕立ゆうだちもさしたる問題もんだいではないらしい。いまもすでに、陽脚ひあし西にしにうすずいて、往来おうらい人影ひとかげにも、のろくとお牛車ぎっしゃにも、にじいろの暮靄ぼあいしていた。
 沢庵たくあんさん、沢庵たくあんさん、としきりにあとからびかけてってものがある。――城太郎じょうたろうだなと沢庵たくあんこまったようなかおつきをける。城太郎じょうたろういきをきって、かれたもとをとらえ、懸命けんめいうったえた。
後生ごしょうだから沢庵たくあんさん、もいちどかえって、おつうさんになんとかいっておくれよ。おつうさんがまたしちまって、おいらには、どうしていいかわからないんだもの」
「おまえ、はなしたのか。――武蔵むさしのことを」
「だって、くから」
「そしたら、おつうさんが、きだしたというのか」
「ことによると、おつうさんは、んでしまうかもれないぜ」
「どうして」
にたそうなかおしているもの。――こんなこといったよ。――もいちどってにたい、もいちどってからにたいッて」
「じゃあ、づかいない。っとけ、っとけ」
沢庵たくあんさん、吉野太夫よしのたゆうって、どこにいるひと
「そんなこといて、どうするつもりじゃ」
「お師匠ししょうさまは、そこにいるんじゃないか。さっき、おやかたさまと沢庵たくあんさんが、はなしていたろ」
「おまえは、そんなことまで、おつうさんにしゃべったのか」
「ああ」
「それではあの泣虫なきむしさんが、にそうなことを口走くちばしるわけじゃ。わしがもどってみたところで、にわかにおつうさんの病気びょうきなおしてやる思案しあんもないから、わしがこういったと、げなさい」
「なんというの」
御飯ごはんをおべって」
「なんだ、そんなことなら、おいらが一日いちにちひゃっぺんもいってら」
「そうか。それはおまえのいう言葉ことばが、そのまま、おつうさんにとっては無二むに名言めいげんなのだが、それさえみみとおらない病人びょうにんならば、仕方しかたがないから、なにもかも正直しょうじきにいってかせるのだな」
「どういうふうに」
武蔵むさしは、吉野よしのという傾城けいせいにうつつをぬかし、きょうで三日みっか扇屋おうぎやからかえってぬという。それをても、武蔵むさしがおつうさんをすこしもおもっていないことがわかろう。そんなおとこしたうて、どうするじゃと、よく、泣虫なきむしのお馬鹿ばかさんにいうてやるがよい」
 くも忌々いまいましげに、城太郎じょうたろうつよくかぶりをった。
「そんなこと、あるもんか。おいらのお師匠ししょうさまは、そんな武士ぶしじゃない。そんなことをいったらおつうさんは、ほんとに自分じぶんんでしまうぞ。なんだい沢庵坊主たくあんぼうずめ、おまえこそ大馬鹿おおばかだ、大馬鹿三太郎おおばかさんたろうだっ」

しかられたな。ハハハ、おこったのか、城太郎じょうたろう
「おいらのお師匠ししょうさまのことわるくいうからさ。おつうさんのことを馬鹿ばかだなんていうからさ」
「おまえ可愛かわいやつだ」
 あたまでてやると、城太郎じょうたろうは、そのあたまをうごかして、沢庵たくあんおとし、
「もういいよ。沢庵坊主たくあんぼうずなんか、なにもたのまないから。おいら一人ひとり武蔵様むさしさまさがしてて、おつうさんにわせてやるからいい」
ってるか」
「なにをよ」
武蔵むさしのいるところを」
らなくたって、さがせばれらい。よけいな心配しんぱいするな」
小癪こしゃくなことをいっても、おまえには、吉野太夫よしのたゆういえはなかなかわからぬぞ。おしえてやろうか」
たのまない、たのまない」
「そうぽんぽんあたるな城太郎じょうたろう。わしじゃとて、おつうさんのかたきじゃない、武蔵むさしにく理由りゆうもない。それどころか、どうかして、あのふたりが二人ふたりとも、よい生涯しょうがいまっとうしてくれるようにかげいのっているものだ」
「じゃあどうして意地悪いじわるをするんだい」
「おまえには、意地悪いじわるえるのか。そうかもれんな。だが、武蔵むさしもおつうさんも、いまのところ、どっちもまあ病人びょうにんのようなものだ。からだやまいなおすのが医者いしゃで、こころやまいなおすのが坊主ぼうずということになっているが、そのこころやまいのうちでもおつうさんのは重態じゅうたいだ、武蔵むさしのほうは、っておけばどうにかなろうが、おつうさんのほうはわしにもいまのところではどうにもならん。だからさじげていうのだよ――武蔵むさしのようなおとこに、片想かたおもいしてどうするんだ、さらりとおもって、御飯ごはんをたんとなおせとな。――そういうよりほかないじゃないか」
「だからいいよ、くそ坊主ぼうずてめえなんかに、なにもたのむといやしねえや」
「わしの言葉ことばが、うそだとおもったら、六条柳町ろくじょうやなぎまち扇屋おうぎやへゆき、そこで武蔵むさしが、どうしているか、見届みとどけてい。そしてたままの事実じじつを、おつうさんにはなしてやれ。いちどはなげきかなしむだろうが、それでめれば結構けっこうじゃ」
 城太郎じょうたろうみみあなへ、ゆびせんをして、
「うるさい、うるさい、どん栗坊主ぐりぼうず
「なんじゃ、わしのあといかけてたくせに」
坊主坊主ぼうずぼうず、お布施ふせはないぞ、お布施ふせほしけれや、うたうたえ」
 沢庵たくあんへ、こう謡口調うたくちょうののしりながら、城太郎じょうたろうみみをふさいだまま、とおくなってゆく姿すがた見送みおくっていた。
 しかし、沢庵たくあんかげが、彼方あちらつじよこへかくれると城太郎じょうたろうには、なみだがせりあがってて、それがぼろぼろとあふちるまで、ぼんやりただずんでいた。
 あわててひじげ、なみだかおよこにこすると、かれは、まよっているいぬが、きゅうになにかおもしたように往来おうらいまわして、
「おばさん!」
 被衣かつぎしてとおりかかった女房風にょうぼうふうおんなのそばへった。
 そして、いきなり、
六条柳町ろくじょうやなぎまちってどこ」
 とたずねた。
 びっくりしたようにおんなは、
遊廓くるわでしょう」
遊廓くるわってなに?」
「まあ」
なにするとこ」
いやだね!」
 にらみつけて、そのおんなは、とおぎてしまった。
 なんでそうされたのか、城太郎じょうたろうはそんな不審ふしんにたじろいではいない。りもせず次々つぎつぎに、六条柳町ろくじょうやなぎまちへのみちと、そこの扇屋おうぎやといういえいてあるいた。