209・宮本武蔵「風の巻」「断弦(2)(3)(4)」


朗読「209風の巻51.mp3」15 MB、長さ: 約 15分 51秒

「ありがとう」
 言葉ことばだけで、ちょっと会釈えしゃくしたまま、武蔵むさし依然いぜんと、けていた。
「……どうぞ」
 とすすめるほう吉野よしのも、これ以上いじょうは、くどくもあたるので、ついにはまただまってしまうほかはない。
 せっかく、こころをこめててたちゃも、帛紗ふくさのうえでえてしまう。――吉野よしのは、ふと、はらてたのか、それとも、よしなき田舎者いなかものに、無用むようのことをとかんがえたのか帛紗ふくさいて、茶碗ちゃわんちゃを、かたわらのこぼしへててしまった。
 ――そしてじっと、あわれむような武蔵むさしけた。相変あいかわらず武蔵むさし姿すがたは、背中せなかからても身体からだじゅうをてつよろいかためているように、一分いちぶすきえなかった。
「もし、武蔵むさしさま」
「なんですか」
「あなたはそうやって、だれそなえているのですか」
だれにではない、自身じしん油断ゆだんいましめている」
てきには」
もとよりのこと」
「それでは、もしここへ、吉岡様よしおかさま門人衆もんじんしゅうが、大勢おおぜいして、どっとせてときには、あなたはちどころに、られてしまうにちがいない。わたくしにはそうおもえてなりませぬ。なんというおどくなおかたであろ」
「……?」
武蔵むさしさま。おんなのわたくしには、兵法へいほうなどというみちわかりませぬが、よいころから、あなたの所作しょさざしをうかがっていると、いまにもられてひとのようにえてならないのです。いわば、あなたのおもてには死相しそうちているといってよいかもれません。いったい、武者修行むしゃしゅぎょうとか、兵法者へいほうしゃとかいってってゆくおかたが、大勢おおぜいやいばまえひかえながら、そんなことでよいものでございましょうか。そんなことでもひとてるものでございまするか」
 詰問なじるように、吉野よしのが、こうたたみかけて、言葉ことばのうえでかれ愍殺びんさつしたばかりでなく、その小心しょうしんさをさげすむように微笑ほほえんでいったので、
「なに」
 武蔵むさしは、土間どまからあしげて、彼女かのじょすわっている炉前ろまえにぴたとすわなおした。
吉野よしのどの、この武蔵むさし未熟者みじゅくものだとわろうたな」
「おいかりなされましたか」
「いうたものおんなだ。いかりもせぬが、拙者せっしゃ所作しょさが、いまにもられる人間にんげんえてならぬとはどういうわけか」
 おこらぬといいながらも、武蔵むさしは、けっして、なまやさしいひかりではなかった。こうして夜明よあけをっていても、自分じぶんをつつむ吉岡門よしおかもん呪咀じゅそや、さくものをしている気配けはいは、全身ぜんしんかんじている武蔵むさしであった。それはなにも、吉野よしのさぐりにやってらせてくれないでも、そのまえからあらかじめ彼自身かれじしん覚悟かくごっていたことである。
 蓮華王院れんげおういん境内けいだいから、あのままほか姿すがたをかくすこともかんがえないでもなかったが、それでは、れの光悦こうえつ非礼ひれいあたるし、また禿かむろのりんへ、かえってるといった言葉ことばうそになる。同時どうじに、吉岡方よしおかがた仕返しかえしをおそれて姿すがたをかくしたと、沙汰さたされては心外しんがいともかんがえたりして、ふたた扇屋おうぎやもどって、なんのこともなかったように、あの人々ひとびと同席どうせきしていたのだった。それは武蔵むさしとして、かなり苦痛くつう辛抱しんぼうでもあったし、自分じぶん余裕よゆうしめしていたつもりであったのに、なんで吉野よしのは、そのかん自分じぶん挙止きょしをながめて、未熟みじゅくだとわらうのか、死相しそうおもてえるような――とののしるのか。
 傾城けいせいぐちならばとがめるまでもないが、なにか心得こころえがあっていうことならば、これもてにならないこととかれおもう。たとえいま、このいえつつつるぎはやしなかであっても、ひらなおって、そのわけきわめてなければならないと、おもわず真率しんそつかがやかせて、武蔵むさしきつ詰問なじったのであった。

 ただのではない、そのままかたなさきへつけてもいいが、じいっと吉野よしのしろかお正視せいしして、彼女かのじょこたえをっているのである。
「――たわむれか!」
 容易よういひらかないくちへ、武蔵むさしがこうすこげきしかかると吉野よしのは、していた笑靨えくぼをまたちらとせ、
「なんの――」
 にこやかに、かぶりって、
「かりそめにも、兵法者へいほうしゃ武蔵むさしさまへ、いまのような言葉ことば、なんでごともうしましょうか」
「では、かせい。どうして拙者せっしゃが、そなたのには、すぐてきられそうなと、そんなもろ未熟みじゅくたいえるのか。――そのわけを」
「それほどおたずねならば、もうしてみましょう。武蔵むさしさま、あなたは先刻せんこく吉野よしの皆様みなさまへのおなぐさみにいた琵琶びわおといておいであそばしましたか?」
琵琶びわを。あれと拙者せっしゃと、なんのかかわりがある」
「おたずねしたのがおろかでした。終始何しゅうしなにものかへ、めていたあなたのおみみには、あの一曲いっきょくのうちにかなでられた複雑こまやかなおと種々いろいろも、おそらくおけはなかったかもれませぬ」
「いや、いていた。それほど、うつつにはおらぬ」
「では、あの――大絃だいげん中絃ちゅうげん清絃しんげん遊絃ゆうげんのわずかよっつしかないいとから、どうしてあのようにつよ調子ちょうしや、ゆるやかな調子ちょうしや、種々さまざま音色ねいろが、自由自在じゆうじざいるのでしょうか。そこまでおけなさいましたか」
らぬことであろう。拙者せっしゃはただ、そなたのかた平曲へいきょく熊野ゆやいていただけのこと、それ以上いじょうなにをこう」
おおせのとおりです。それでよいのでございますが、わたくしはいまここで琵琶びわ一箇いっこ人間にんげんとしてたとえてみたいのでございます。――で、ざっとおかんがえなされても、わずかよっつのいといたどうとから、あのように数多かずおおるというのは、不思議ふしぎなことでございませぬか。その千変万化せんぺんばんか音階おんかいを、もうげるよりも、あなたもごぞんじでございましょう、白楽天はくらくてんの『琵琶行びわこうというのうちに、琵琶びわいろがよく形容けいようされてありました。――それは」
 吉野よしのは、ほそまゆをちょっとひそめながら、うたふしでもなく、そうかといって、ただの言葉ことばでもない低声ていせいで、

大絃だいげんはさうさう 急雨きゅううごと
小絃しょうげん切々せつせつ 私語しごごと
そうそう切々せつせつ 錯雑さくざつだんずれば
大珠小珠たいじゅしょうじゅ 玉盤ぎょくばん
間関かんくわんたる鶯語あうご 花底かていなめら
幽咽いうえつ  泉流せんりゅう みず たんくだ
水泉すいせん冷渋れいじふ げん凝絶ぎょうぜつ
凝絶ぎょうぜつしてつうぜず 声暫こえしば
べつ幽愁ゆうしゅう 暗恨あんこんしょうずるあり
此時このときこえなきは こえあるにまさ
ぎんぺいたちまやぶれて 水漿すゐしやうほとばし
鉄騎てつき突出とっしゅつして 刀槍とうさう
曲終きょくおわつてばちををさめ むねててくわく
四絃一声しげんいっせい 裂帛れっぱくのごとし

「――このように一面いちめん琵琶びわ複雑さまざまおとみまする。わたくしは禿かむろころから、琵琶びわからだが、不思議ふしぎ不思議ふしぎでなりませんでした。そしてついには、自分じぶん琵琶びわこわし、また自分じぶん琵琶びわつくってみたりするうちに、おろかなわたくしにも、とうとう琵琶びわからだうちにある琵琶びわこころつけました」
 そこで言葉ことばると、吉野よしのはそっとって、さっきいた琵琶びわをかかえてふたたびそこへすわった。海老尾えびおかるって、武蔵むさし自分じぶんあいだに、それをててながめやりながら、
「ふしぎな音色ねいろも、このいたからだって、琵琶びわこころのぞいてみるとなんのふしぎでもないことがわかりまする。それをあなたへおにかけましょう」
 薙刀なぎなたれでもあるようなほそなたが、彼女かのじょしなやかな振上ふりあげられた。あっと、武蔵むさしいきに、はやそのなたは、琵琶びわこばふかはいっていた。袈裟板けさいたのあたりから桑胴くわどうしたまで、丁々ちょうちょうと、三打みう四打ようち、るような刃音はおとだった。武蔵むさし自分じぶんほねなたくわえられたようないたみをおぼえた。

 しかし、吉野よしのもなく、琵琶びわからだたていてしまっていた。

「ごろうじませ」
 吉野よしのは、なたをうしろへかくすと、もうさりない微笑ほほえみをうかべて武蔵むさしへいった。
 生々なまなましい木肌きはだ剥出むきだして、かれた琵琶びわどうどうなか構造こうぞうを、あからさまにしたさらしている。
「……?」
 武蔵むさしは、それと吉野よしのおもてとを見較みくらべて、この女性じょせいのどこに、いまのようなはげしい気性きしょうがあるのかとうたがった。武蔵むさし頭脳あたまにはまだいまなたおとえさらないで、どこかがいたいようにうずいているのに、吉野よしのほおあかくもなっていなかった。
「このとおり、琵琶びわなかは、空虚うつろおなじでございましょうが。では、あの種々さまざま変化へんかはどこからおこるのかとおもいますと、このどうなかわたしてある横木よこぎひとつでございまする。この横木よこぎこそ、琵琶びわからだささえているほねであり、ぞうでもあり、こころでもありまする。――なれど、この横木よこぎとても、ただ頑丈がんじょうすぐに、どうめているだけでは、なんのきょくもございませぬ。その変化へんかむために横木よこぎには、このようにわざと抑揚よくようなみけずりつけてあるのでございまする。――ところが、それでもまだしん音色ねいろというものはてまいりません。しん音色ねいろはどこからといえば――この横木よこぎ両端りょうたんちからを、ほどよくってあるゆるみからうまれてくるのでございまする。――わたくしが、粗末そまつながらこの一面いちめん琵琶びわくだいて、あなたにわかっていただきたいとおもてんは――つまりわたくし達人間たちにんげんきてゆく心構こころがまえも、この琵琶びわたものではなかろうかとおもうことでござりまする」
「…………」
 武蔵むさしひとみは、琵琶びわどうからうごかなかった。
「それくらいなことだれでもわかりきっていることのようで、じつはなかなか琵琶びわ横木よこぎほども、おなかえていられないのが人間にんげんでございますまいか。――四絃しげん一撥ひとばちてば、刀槍とうそうり、くもけるような、あのつよ調子ちょうしどううちには、こうした横木よこぎゆるみとまりとが、ほどよく加減かげんされてあるのをて、わたくしはとき、これをひと日常にちじょうとして、沁々しみじみおもあたったことがあったのでございまする。……そのことを、ふと、今宵こよいのあなたのうえせてかんがわせてみると……ああ、これはあやういおひとまっているだけで、ゆるみといっては、微塵みじんもない。……もしこういう琵琶びわがあったとして、それへばちてるとしたら、おと自由じゆうとか変化へんかはもとよりなく、無理むりけば、きっといとれ、どうけてしまうであろうに……、こうわたくしは、失礼しつれいながらあなたのご様子ようすて、ひそかにおあんもうしていたわけなのでござりまする。けっして、ただしざまにもうしたり、ぐちもてあそんだ次第しだいではありませぬ。どうぞ、烏滸おこがましいおんな取越とりこ苦労ぐろうと、おながくださいませ」
 ――とりこえとおくでしていた。
 すきまから、ゆきのためにつよあさがもうしていたのである。
 しろ木屑きくずれた四絃しげん残骸ざんがいつめたまま、武蔵むさしは、とりこえみみおぼえなかった。すきまからひかりがさしていたのにもづかなかった。
「……お。いつのにか」
 吉野よしのは、夜明よあけをしむように焚木たきぎそうとしたが、牡丹ぼたんはもうなかった。
 ける物音ものおとや、小禽ことりのさえずりや、あさ気配けはいとお世間せけんのようにきこえる。
 けれど吉野よしのは、いつまでも、ここの雨戸あまどけようとはしない。牡丹ぼたんはなくなっても、彼女かのじょはまだあたたかだった。
 禿かむろ引船ひきふねも、彼女かのじょばないうちは、ここの無断むだんけてはいってくるはずもなかった。