朗読「205風の巻47.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 21秒
五
これは相討ちとなるほかあるまい。どっちも酒にかけては一かどの巧者と強者、酒戦の勝負はいつ果つべしとも見えなかった。
吉野が去ると間もなく、
「わしも……」
急に思い立ったように、近衛信尹は館へ帰ってしまったし、行司の沢庵も眠くなったとみえ、無遠慮な欠伸を発してしまう。
それでもまだ二人は酒戦をやめない。勝手にやらせておいて沢庵も勝手に寝ころぶ。そして、近くにいた墨菊太夫の膝を見つけて、そこへ断りなしに頭をのせてしまう。
そのまま、うつらうつらしているのは快い気もちだったが、沢庵はふと、
(淋しがっているだろうな、早く帰ってやりたいが)
城太郎とお通のことを思い出していた。
その二人は、いま烏丸光広の館に世話されているのだった。伊勢の荒木田神主から届け物を頼まれて来て、城太郎の方は年暮から――お通はつい先頃から。
その先頃といえば。
いつぞや清水観音の音羽谷で、お通がお杉婆のために追われた晩――不意に沢庵があの場へお通を捜しに行ったというのにも、前からあんな不安を予知して、彼をそこに赴かせた理由のあったことなのである。
沢庵と烏丸光広とは、もう随分久しい交友であった。和歌に、禅に、酒に、悩みに、いわゆる道友の一人だった。
するとその友からこの間うち、
(どうだ、正月じゃないか、なにを好んで田舎の寺になどくすぶっていられるか。灘の銘酒、京の女、加茂の川千禽、都は恋しくないか。眠たいなら田舎で禅をなされ、生きた禅をなさるなら人中でなされ。その都を恋しく思ったら出て来られてはいかが)
と、そんな消息が来たので、沢庵はこの春上洛って来たのだった。
偶然、そこで彼は、城太郎少年を見かけた。館の内で毎日飽かずによく遊んでいる。光広に聴いてみると、しかじかという理。そこで城太郎を呼びよせ、詳しく聞いてみると、お通だけは元日の朝からお杉婆と共に婆の家へ行って、それきり便りもないし帰って来ないという事情がわかった。
(それは、とんでもないことだ)
沢庵はおどろいて、その日のうちに、お杉婆の宿を捜しに出かけ、三年坂の旅籠をやっと突きとめたのがもう夜のことで――それからいよいよ不安を感じ、旅籠の者に提燈を持たせて、清水堂へ捜しに出かけた理である。
あの晩、沢庵はお通を無事に連れて、烏丸の家へもどって来たが、お杉のために極度な恐怖を経験させられたお通は、翌日から熱を病んで、今もって枕が上がらない。城太郎少年は枕元につき限りで、彼女の頭を水手拭で冷やしたり薬の番をしたりして、いじらしい程、看護に努めている――
「ふたりが、待っているだろうな」
だから沢庵は、なるべく早く帰ってやりたいと思っていたが、連れの光広は、帰るどころか、遊びはこれからだというように冴えている。
しかしさすがに、拳や酒戦も、やがて飽いて、勝負なしに今度は飲み始めたと思うと、膝つき合せて、なにか議論だった。
武家政治がどうとか、公卿の存在価値とか、町人と海外発展とか、問題は大きいらしい。
女の膝から、床ばしらへ移転して沢庵は眼をつぶって聞いている。眠っているのかと思うと、時々、ふたりの議論の端を耳にしてにやりと笑う。
そのうちに光広が、
「やっ、近衛どのは、いつの間に帰ってしもうたのか」
と、不平に醒め、紹由もまた、興ざめたように顔を革めて、
「それよりも、吉野がおらぬ」
と、いい出した。
「怪しからぬこと」
光広は、隅の方で居眠っていた禿のりん弥へ、
「吉野を呼んで来やい」
と、いいつけた。
りん弥は、眠たげな眼をまろくして、廊下を立って行った。そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、寂然と坐っていた。
六
「あれ、いつの間に。……ちっとも知らなかった、お帰りなさいませ」
りん弥の声に、武蔵が、
「今戻って来ました」
「さっきの裏口から?」
「うむ」
「どこへ行って来たんですか」
「廓外まで」
「いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう――」
ませた言葉に、武蔵は思わず笑って、
「皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか」
「あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます」
「光悦どのは」
「知りません」
「お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが」
「いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます」
禿の冗談さえ、武蔵は、真顔になって聞いていた。そういうものかと信じているのである。
「ですから黙って帰っては嫌ですよ。私が来るまで、ここに待っていらっしゃい」
りん弥が出てゆくと、しばらく経って、そのりん弥から聞いたのであろう、沢庵がはいって来て、
「武蔵、どうした」
と、肩をたたいた。
「あっ?」
これはあっと驚くほどな出来事に違いない。さっきりん弥が、お坊様が来ているとはいったが、まさか沢庵であろうとは武蔵も思っていなかったのである。
「――しばらくでした」
座を辷って、武蔵が、両手をつかえると、沢庵はその手を握って、
「ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか」
「どこへ参られたやら?」
「捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして」
いいながら、ふと沢庵が隣の襖を開けると、そこの炬燵布団へ小屏風を囲い、雪の夜を心ゆくまで暖まりながら寝ている人がある。それが光悦だった。
あまり心地よげに寝ているので、揺り起すのも心なく思われたが、そっと顔を覗いているまに、光悦は自身から眼をさまし、沢庵と武蔵の顔を見くらべて、おや? と不審るような様子だった。
理を聞くと光悦も、
「あなたと、光広卿だけのお席なら、あちらへお邪魔してもよい」
と、打揃って、光広の席へもどって来た。
しかしもう光広も紹由も、遊びの興は尽きた態で、そろそろ歓楽の後の白けた寂しさが、誰の面にもただよいかけている。
酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見せないのが、なんとしてももの足らない。
「戻ろうではないか」
「帰りましょう」
一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんの未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるのを惧れるように、皆すぐ立った。
――すると。
禿のりん弥を先に立たせ、後から吉野太夫付きの引船(しんぞの称)二人、小走りに来て、一同の前に手をつかえ、
「お待たせいたしました。太夫様からのお言伝てには、ようよう、お支度ができました程に、皆様をお通しせよとのおことばにござりまする。お帰りもさることながら、雪の夜は更けても明るうございますし、このお寒さ、せめてお駕籠のうちも暖かにお戻り遊ばすよう、どうぞ、も少しの間、こちらでお飲しくださいませ」
と、思いがけない迎えである。
「はてな?」
――お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、いっこう解せない顔つきで眼を見合わせた。