202・宮本武蔵「風の巻」「雪響き(10)(11)」


朗読「202風の巻44.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 19秒

 かれ破綻はたんいのる、かれすきをさがす、かれ呼吸こきゅうはかる、かれとうとする、くまでとうとする。八幡はちまん、ここぞ生死せいしのわかれおもう。
 そういう意識いしきが、脳裡のうりにちらついているあいだは、相手あいて伝七郎でんしちろうがまるでおおきないわおのようにえ、
(これは)
 と、武蔵むさしも、その豪壮ごうそう存在そんざいからうける一種いっしゅ圧迫感あっぱくかんを、はじめはどうしようもなかった。
てきは、おれよりも上手うわてだ)
 正直しょうじきに、武蔵むさしは、そうおもったのである。
 おなは、小柳生城こやぎゅうじょうのうちで柳生やぎゅう四高弟よんこうていかこまれたときにもうけた。かれのその自覚じかくというのは、柳生流やぎゅうりゅうとか吉岡流よしおかりゅうとかいう正法せいほうけんむかってみると、自分じぶんけんがいかに野育のそだちのかたもない我法がほうであるかがよくわかることだった。
 いま――伝七郎でんしちろうかまえているさまをても、さすがに吉岡拳法よしおかけんぽうというあれだけの先人せんじんが、一代いちだいついやして工夫くふうしただけのものが、単純たんじゅんのうちに複雑ふくざつに、豪放ごうほうなうちに賢密けんみつに、ひとつのととのったけんのすがたをしていて、ただちからとか、精神せいしんとかいうだけのものでしてっても、けっしてやぶないものがあった。
 生半可なまはんか武蔵むさしには、それがえるだけに、も、あしない心地ここちがしてしまうのだった。
 で当然とうぜん武蔵むさし無謀むぼうになれなかった。
 かれのひそかに自負じふしている我法がほう野人やじんぶりも振舞ふるまえなかった。こんなはずはないとおもうくらい、こよいのひじびてゆかない。じっと、保守的ほしゅてきかまえをっているのが呼吸こきゅういっぱいであった。
 その結果けっかこころはらってもはらっても、
すきを)
 と、充血じゅうけつきたし、
八幡はちまん
 とちをいのり、
たねば)
 と、躍起やっきあせりがいてて、こころはいよいよさわがしい。
 おおくの場合ばあい、たいがいなものが、ここで渦潮うずしお巻込まきこまれたように狼狽ろうばいちておぼれるのであった。しかし武蔵むさしは、なんの心機しんきをつかむともなく、そのあぶない自分じぶん昏迷こんめいからふとうかがっていた。これはかれが、一度いちど二度にども、生死せいしのさかいんで体験たいけん賜物たまものにほかならぬものであろう。――はっとかれたようにめていたのである。
「…………」
「…………」
 依然いぜんとして青眼せんがん青眼せんがんとの対峙たいじのままだった。ゆき武蔵むさしかみつもり、伝七郎でんしちろうかたにもつもっていた。
「…………」
「…………」
 いわおのようなてきはもうまえになかった。同時どうじに、武蔵むさしという自己じこもなくなっていた。そうなるまえ必然ひつぜんとうという気持きもちすらどこかへせてしまっている武蔵むさしであった。
 伝七郎でんしちろう自分じぶんとの約九尺やくきゅうしゃくほどな距離きょり空間くうかんをチラチラとしずかにっているゆきしろさ――そのゆきこころ自分じぶんこころかのようにかるく、その空間くうかんが、自分じぶんのようにひろく、そして天地てんち自分じぶんか、自分じぶん天地てんちか、武蔵むさしはあって、武蔵むさしはなかった。
 すると、いつのまにか、そのゆき空間くうかんちぢめて、伝七郎でんしちろうあしまえていた。そしてかたなさきに、かれ意思いしが、ビクとうごきかけた。
 ――ぎゃっッ!
 武蔵むさしかたなうしろをはらっていたのである。そのは、かれ背後はいごからって太田黒兵助おおたぐろひょうすけあたまよこぎ、ジャリッと、小豆袋あずきぶくろでもったようなおとをさせた。
 おおきな鬼燈ほおずきみたいなあたまが、武蔵むさしそばいきおいよくよろけて、伝七郎でんしちろうほうおよいでった。そのあるいてった死骸しがいにつづいて、武蔵むさしからだ咄嗟とっさに――てきむね蹴飛けとばしたかとおもわれるほどたかんでいた。

十一

 四方あたり静寂しじまつんざいて「ア――ああっッ」と、亀裂ひびのはいったこえだった。伝七郎でんしちろうくちからである。満身まんしんからはっした気合きあいが、途中とちゅうでポッキとれたように、ちゅうへその一声いっせいかすれてったとおもうと、かれおおきなからだが、うしろへよろめき、どっ――としろゆきしぶきにつつまれた。
「まッ、まてッ」
 大地だいちびたからだ無念むねんそうにげ、ゆきなかかおめながら、伝七郎でんしちろうがこううめくようにいったときはもう、武蔵むさしかげは、かれのそばにはいなかったのである。
 俄然がぜん、それにこたえたものは、はる彼方かなたで――
「おうっ」
御舎弟ごしゃていほうだ」
「た、たいへんだ」
「みんないっ」
 どどどどと、うしおけてるように、ゆきって、くろ人影ひとかげがここへあつまってる。
 いうまでもなく、とおはなれて、かなり楽観的らっかんてきに、勝負しょうぶのつくのをっていた親類しんるい壬生みぶ源左衛門げんざえもんやそのほか門人もんじんたちだった。
「ヤ! 太田黒おおたぐろまで」
御舎弟ごしゃていっ」
伝七郎様でんしちろうさまっ」
 んでも、手当てあてしても、もういけないことはすぐわかった。
 太田黒兵助おおたぐろひょうすけほうは、みぎみみからよこへかけられた太刀たちくちなかまでられているし、伝七郎でんしちろうほうは、あたま頂上ちょうじょうからややななめにはなばしらをすこはずれて、した顴骨かんこつまでられている。
 ともに、たった一太刀ひとたちだった。
「……だ、だからわしが、いわんことではない。てきあなどるからこんなことになったのじゃ。……でん伝七郎でんしちろうっ、これっ、これっ、伝七でんしち……」
 壬生みぶ源左衛門叔父げんざえもんおじは、おいのからだをいて、りながら、死骸しがいむかってやんでいた。
 いつのまにかその人々ひとびとみつけているゆきはいちめん桃色ももいろかわっていた。――自分じぶん死者ししゃほうにばかりをとられていたが、壬生みぶ源左老人げんざろうじんは、ただうろうろとうしなっているほかものはらって、
相手あいてはどうしたっ」
 と、呶鳴どなりつけた。
 その相手あいて所在しょざいを、ほかものにとめてないわけではなかったが、いくらキョロキョロしても、武蔵むさしかげは、もう自分達じぶんたち視野しやからは見出みいだせなかったので、
「――いない」
「――おりません」
 痴呆うつけのような返辞へんじをすると、
「いないわけがあるかっ」
 源左衛門げんざえもんがみをしながら、
「わしらがすまで、たしかにっていたかげがここにえたのじゃ。まさか、つばさのあるわけでもあるまい、一太刀ひとたち武蔵むさしむくわんでは、吉岡よしおか一族いちぞくとして、わ、わしの面目めんぼくたぬ」
 すると、そこにかたまっている大勢おおぜいなかから一人ひとりがあッといって、ゆびさした。
 自分じぶんたちの仲間なかまからしたあッというこえであるのに、その衝動しょうどうをうけてみな、どっと一歩いっぽずつ後方うしろ退き、そして、ゆびさしたもの指先ゆびさきへじっと視線しせんをそろえた。
武蔵むさし
「オオあれか」
「うーむ……」
 一瞬いっしゅん、なんともいえない寂寞じゃくまくみなぎった。ひとのない天地てんちしずかさよりも、人中ひとなか空気くうきにふといた寂寞じゃくまくのほうが不気味ぶきみ霊魂れいこんをふくんでいた。鼓膜こまくあたまなか真空しんくうになって、ものが、ものうつしているだけで、思考しこうれることをわすてたかのようになる。――
 武蔵むさしは、そのとき伝七郎でんしちろうたおした場所ばしょから最短距離さいたんきょり建物たてものひさししたっていたのである。
 ――それから。
 相手方あいてがた様子ようすつつ、かべにしたまま、徐々じょじょ横歩よこあるきにあるき、三十三間堂さんじゅうさんげんどう西にし端縁はしえんへのぼって、悠々ゆうゆうとさいぜんったところえんなかほどまであしうつしていた。
 そこから一応いちおう
るか?)
 と、からだ正面しょうめんを、彼方かなたにかたまっているれへけたが、その気色けしきもないと見定みさだめたのであろう。ふたたびあるして、えんきたかどまでったかとおもうと、忽然こつぜん蓮華王院れんげおういんよこへとかげしてしまった。