22・宮本武蔵「地の巻」「縛り笛(5)(6)」


朗読「地の巻22.mp3」23 MB、長さ: 約10分00秒

「なぜ?」
 いつになく、沢庵たくあんしつこくいう。
「なぜでも」
 おつうは、くびる。
してもよかろう。ふえは、けばくほど、くこそなるがりはしまい」
「でも……」
 おびをあてて、おつう依然いぜん、はいといわない。
 もっとも、彼女かのじょ肌身離はだみはなさずっているそのふえが、如何いか彼女かのじょにとって大事だいじしなであるかは、かつてお通自身つうじしんが、上話うえばなしをしたおりいてもいるので、沢庵たくあん十分じゅうぶんにそのもちをさっしはするが、ここで自分じぶんすぐらいな寛度かんどはありそうなものと、
粗相そそうにはあつかわないから、とにかく、ちょっとおせ」
いや
「どうしても」
「え。……どうしても」
強情ごうじょうだのう」
「え。強情ごうじょうです」
「じゃあ……」
 と、ついに、沢庵たくあんれて、
「おつうさんが、自分じぶんいてくれてもよい。なにか、一曲いっきょく
いやです」
「それもいやか」
「ええ」
「どういうわけで」
なみだがこぼれてけませんもの」
「ウム……」
 孤児みなしごは、頑固かたくななものと、沢庵たくあんあわれにもなったが、その頑固かたくなこころ井戸いどはつねにつめたい空虚うつろをいだき、そしてなにかにかわいている。また、孤児みなしごたないものを、つねふかつよのぞんでいることがふとおもわれた。
 それは、孤児みなしごめぐまれていないあいいずみであった。おつうむねにも、おつうらない幻覚げんかくだけのおやたちがいて、こうしているあいだえず、びかけたりびかけられたりしているらしいが、彼女かのじょは、その骨肉こつにくあいらない。
 ふえも、じつはそのおや遺物かたみなのである。たッたひとつのおや姿すがたふえだった。――彼女かのじょがまだ、ひかりもよくえないでいた嬰児あかごころ七宝寺しっぽうじえんがわへ、ねこみたいにされてあったとき、おびに、この一管いっかんふえしてあったのだという。
 してみると、そのふえは、彼女かのじょっては、まことに、将来ゆくすえ自分じぶん血液けつえきのつながりをさがもとめる唯一ゆいいつがかりでもあるし、また、こうしてまだ相見あいみぬうちは、ふえこそがおや姿すがたであり、ふえこそおやこえでもある。
 ――くとなみだがこぼれるから。
 おつうが、すのもいやくのもいやといった気持きもちは、よくわかるし、可憐いじらしい。
「…………」
 沢庵たくあんは、だまってしまった。
 めずらしく三日月みかづき今夜こんやは、薄雲うすぐもうちに、ぼやっと、真珠色しんじゅいろつきけている。あきはるかえかりが、こよいも日本にほんってゆくとみえ、雲間くもま時々啼ときどきなごえてている。
「……また、とぼしくなったな。おつうさん、そこのをくべておくれ。……おや。……どうしたのじゃ」
「…………」
いているのか」
「…………」
「つまらぬことをおもさせて、こころないわざをしたの」
「……いいえ。沢庵たくあんさん……わたしこそ、強情ごうじょうってわるうございました。どうぞ、おつかいくださいまし」
 おびあいだふえいて、沢庵たくあん差出さしだした。
 それは、色褪いろあせた古金襴こきんらんふくろはいっている。いとはつづれ、ひも千断ちぎれているが、古雅こがなにおいとともに、なかふえまでが、ゆかしくしのばれる。
「ほ。……よいのか」
「かまいません」
「じゃあ、ついでのことに、おつうさんがいてはどうじゃな。わしは、いていてもよいのだ。……こうしていているから」
 ふえにはれないで、沢庵たくあん横向よこむきになった。そして自分じぶんひざかかえこむ。

 つねならば、ふえなどかしてあげようといえば、かないさきから、茶化ちゃかすにまっている沢庵たくあんが、耳澄みみすまして、じっとをつむっているのでおつうは、かえって、羞恥はにかんでしまって――
沢庵たくあんさんは、ふえがお上手じょうずなんでしょう」
下手へたでもないそうだね」
「じゃあ、あなたからさきいてみせてください」
「そう、謙遜けんそんするほどではないよ。おつうさんだって、相当そうとうならったというはなしではないか」
「え。藤原流ふじわらりゅう先生せんせいが、おてら四年よねん懸人かかりゅうどになっていたことがありましたから」
「ではたいしたものだ、獅々ししとか、吉簡きっかんとかいう秘曲ひきょくもふけるのじゃろ」
「とんでもない――」
「まあ、なんでもきなもの……いや自分じぶんむねうっしているものを、そのななつのあなから、さんじてしまうつもりでいてごらん」
「ええ。わたしもそんながするんです、むねのうちのかなしさやうらみやためいきや、そんなものおもうさまらしてしもうたら、さぞ爽々せいせいするでしょうとおもって」
「それよ、さんじるということは大切たいせつだ。ふえ一尺四寸いっしゃくよんすんは、そのままが一個いっこ人間にんげんであり、宇宙うちゅう万象ばんしょうだという。……かんじょうさくろくななツのあなは、人間にんげん五情ごじょう言葉ことば両性りょうせい呼吸いきともいえよう。懐竹抄かいちくしょうんだことがあるだろう」
おぼえておりませんが」
「あのはじめに――ふえ五声八ごせいはちいんうつわ四徳二調しとくにちょうなりとある」
ふえ先生せんせいみたいですね」
「わしは、極道坊主ごくどうぼうずのお手本てほんのようなものじゃ。どれ、ついでに、ふえてあげよう」
てください」
 るとすぐ沢庵たくあんはいった。
「ウーム、これは名器めいきだ。このふえ捨子すてごえてあったといえば、そなたのてて母者人ははじゃひとも、およそひとがらがわかるがする」
ふえ先生せんせいめていましたが、そんなにこれはよいしなですか」
ふえにも、姿すがたがある、心格しんかくがある。れて、すぐかんじるのだ。むかしは、鳥羽院とばいん蝉折せみおりとか、小松殿こまつどの高野丸こうやまるとか、清原助種きよはらのすけたねをたかくした蛇逃じゃにがしのふえとか、ずいぶんの名器めいきもあったらしいが、ちかごろの殺伐さつばつ世間せけんで、こんなふえたことは、沢庵たくあんはじめてともうしてもさしつかえない、かぬうちからぶるいがる」
「そんなことをっしゃると、下手へたわたしにはよけいにけなくなってしまう」
めいがあるの。……はて、星明ほしあかりでは、めないわえ」
ちいさく、吟龍ぎんりゅういてあります」
吟龍ぎんりゅう。……なるほど」
 と、ふえさやふくろとともに、彼女かのじょへかえして、
「さ。……所望しょもう
 と、厳粛げんしゅくにいった。沢庵たくあん真剣しんけん容子ようすにおつうもひきこまれて――
「では、つたなわざでございますが……」
 くさのうえにすわなおし、作法さほうただして、ふえ礼儀れいぎをする。
 もう沢庵たくあんくちもきかない、深夜しんやじゃくとした天地てんちがあるだけで、そこに沢庵たくあんというあらたまった人間にんげんはないもののようである、かれくろいすがたは、このやま一個いっこいわのようにしかえていなかった。
「…………」
 おつうは、くちびるへ、ふえをあてた。