201・宮本武蔵「風の巻」「雪響き(8)(9)」


朗読「201風の巻43.mp3」8 MB、長さ: 約 8分 38秒

出遅でおくれたうえ、まだ支度したくととのわぬのか。ここは、足場あしばがわるい」
 焦立いらだ伝七郎でんしちろうへ、武蔵むさしくまで落着おちつきはらって、
今参いままいる」
 と、いった。
 おこれば、かならやぶれるたんをなすことを、伝七郎でんしちろうらないではない。だが、まるで故意こいのような武蔵むさし態度たいどていると、そういうふだんの修得しゅうとく感情かんじょうがばらばらにならずにいられないのである。
いっ! もっと広場ひろばのほうへ! おたがいに、はいさぎよくしておきたい。姑息こそく振舞ふるまい、卑怯ひきょうい、そんなものへ、つばきしてきてきた吉岡伝七郎よしおかでんしちろうだっ。――武蔵むさしっ、仕合しあわぬまえに、怯気おじけいだくようでは、伝七郎でんしちろうまえ資格しかくはないぞっ、りろそこを!」
 ようやくかれが、呶鳴どなりつづけすと、武蔵むさしはニッとすこせた。
「なんの、吉岡伝七郎よしおかでんしちろうごとき、すでに去年きょねんはる拙者せっしゃ真二まっぷたつにっている! きょうふたたれば、おんることこれで二度目にどめだ!」
「なにっ! いつ、どこで」
大和やまと国柳生くにやぎゅうしょう
大和やまとの」
綿屋わたやという旅籠はたご風呂ふろなかで」
「や、あのとき?」
「どっちも、寸鉄すんてつびていない風呂ふろなかであったが、をもって、このおとこれるかどうかを自分じぶんこころのうちではかっていた。そして、った、見事みごとれたとおもった。しかし、そちらのからだにはなんかたあらわさないから、づきもせずにおったろうが、おんが、けんもの傲語ごうごするならば、余人よじんのまえでいうなららぬこと、この武蔵むさしのまえでいうのは笑止しょうしだ」
「なにをいうかとおもえば、にもつかぬざきごと。だが、すこしおもしろい、そのひとりよがりをましてやろう。いっ。彼方むこうとう」
「して伝七郎でんしちろう道具どうぐは、木太刀きだちか、真剣しんけんか」
木太刀きだちたずにまいってなにをいう。真剣しんけん覚悟かくごのうえでたのとちがうか」
相手あいて木太刀きだちのぞみとあれば、相手あいて木太刀きだちうばってつ」
広言こうげん、やめろッ」
「では」
「おっ」
 ――伝七郎でんしちろうかかとは、ゆきうえくろ斜線しゃせん一間半いっけんはんえがいて、さっと武蔵むさしとお空間くうかんあたえた。――しかし武蔵むさしは、えんうえよこ三間さんけんつつつつとあるいてからゆきなかりていた。
 ふたりは、御堂みどうえんからそう何十間なんじゅっけんさきまではあるいてかなかった。そこまであいだ伝七郎でんしちろうにはもうちきれないものになっていた。やにわに、相手あいて重圧じゅうあつくわえるようないっかつびせると、かれ体格たいかくっている長刀なぎなたが、いかにもかるいもののように、びゅっ――とかすかなりをはっして、武蔵むさしのあった位置いち正確せいかくはらっていた。
 だが、力点りきてん正確せいかくさが、てき両断りょうだんする正確せいかくさとはあながちいえない。対象たいしょうのうごきかたは、とう速度そくどよりも、もっとはやかった。――いやそれ以上いじょう迅速じんそくだったのは、そのてき肋骨あばらしたからいて白刃しらはであった。

 きらっと、ふたすじのかたなが、宇宙うちゅうひらめいたのをのちは、ゆきちてくるさまは如何いかにものろいものにえた。
 けれど、その速度そくどにも、楽器がっき音階おんかいのように、じょきゅうがあった。かぜくわわればきゅうになり、ゆきいて旋風つむじになると、おこす。そしてまた、白鵞はくがうようなしずかな雪景色ゆきげしきかえってった。
「…………」
「…………」
 武蔵むさし伝七郎でんしちろうとの、ふたりのかたなも、おたがいのかたなさやはしったとえたその一瞬いっしゅんには、もうどっちかの肉体にくたいは、到底無事とうていぶじではありないとかんがえられるところまでせまい、同時どうじふたつのかたなうごかたにも複雑ふくざつひかりがあったようにえたが、それが、ぱっとふたりのかかと雪煙ゆきけむりげ、後方うしろはなれあうと――どちらのもまだ健在けんざいであって、白雪しらゆき大地だいちに、一滴ひとたらしのしおもこぼれていないことが、なんだかありない奇蹟きせきのようにしかおもわれなかった。
「…………」
「…………」
 それきり、ふたすじのかたなは、さっきからさきさきとのあいだ約九尺やくきゅうしゃくほどな距離きょりをおいたまま、空間くうかん固着こちゃくしているのである。
 伝七郎でんしちろう眉毛まゆげゆきがたかっていた。そのゆきけると、つゆになって、眉毛まゆげからなかへながれむらしいのである。ために時々ときどきかおしかめると、その顔筋肉かおきんにく無数むすうこぶみたいにうごき、そしては、くわっとおおきなをひらきなおしていた。そこからしそうな眼孔がんこうは、まるでてつかしているまどのようであり、それとともにくちは、下腹したばらからしている呼吸こきゅうを、きわめて平調へいちょうかよわせているかのようにせていても、じつはふいごのようなねつくさをもっていた。
(――しまった!)
 伝七郎でんしちろうは、てきとこういう対峙たいじになるとすぐ、むねのなかでそういていた。
(なぜ、きょうにかぎって、青眼せんがんにつけてしまったか。いつものように頭高ずだかりかぶってしまわなかったか)
 しきりと、その後悔こうかいあたまのなかを往来おうらいする。といっても人間にんげんのふだんにする思考しこうのようにのうだけで物事ものごとをのん判断はんだんしていられる状態じょうたいではない。からだじゅうの血管けっかんのうちを、どっどっと、おとをたててけているがみな思考力しこうりょくってそうかんずるのだった。あたまも、眉毛まゆげも、全身ぜんしん毛髪もうはつはいうまでもなく、あしつめまでが、生理的せいりてき動員どういんされて、てきむかってった戦闘せんとう姿態したいしめしているのだった。
 こうかたなかまえてつのは――青眼身せんがんしんとなってたたかうのは――伝七郎でんしちろう自分じぶん不得手ふえてであることをっていた。だから、ひじげ、こうなおそうと、先程さきほどから幾度いくどとなく、さきげかけたが、どうしてもげられなかった。
 ――武蔵むさしが、そのを、っているからである。
 その武蔵むさしもまた、青眼せんがんかたなをぴたりと――ややひじをゆるめにかまえていた。伝七郎でんしちろうひじ屈曲くっきょくしているところには、めりめりといいそうなちからえるが、武蔵むさしひじにはせばしたへもよこへもうごきそうなやわらかさがえる。――そしてまた、伝七郎でんしちろうかたなまえにもいったように、時折ときおり位置いちあらためようとしてうごいてはうごいてはめしているのと反対はんたいに、武蔵むさしにあるかたなは、びくともうごかなかった。そのほそ刀背みねからつばにかけて、かすかにゆきがつもるほどうごかずにあった。