200・宮本武蔵「風の巻」「雪響き(6)(7)」


朗読「200風の巻42.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 01秒

 もっとも、こういう場合ばあい一瞬ひとときというものは、ほうになると、わずかなあいだも、えきれない焦躁しょうそうになるのは勿論もちろんである。
 伝七郎でんしちろう気持きもちも、太田黒兵助おおたぐろひょうすけ気持きもちも、そのれいれない。こと兵助ひょうすけは、自分じぶんのした報告ほうこく責任せきにんかんじてくるし、さむさはからだからしもつようだし――もう、一瞬ひととき、もう一瞬ひとときと、その焦躁しょうそうおさえていても依然いぜんとして武蔵むさしかげえてないし――
 たまらなくなって、かれは、
「どうしたのかなあ?」
 床下ゆかしたからて、彼方かなたっている伝七郎でんしちろうなにびかけた。
兵助へいすけ、まだいたのか」
 伝七郎でんしちろうおなもちでこうこえかえした。どっちからともなく二人ふたり接近せっきんしていた。そしてすべてがただしろゆきよる見廻みまわして、
「……えぬ!」
 と、うめきに不審いぶかりを繰返くりかえしていた。
彼奴きゃつせたな」
 伝七郎でんしちろうがつぶやくと、
「いや、そんなはずは……」
 太田黒兵助おおたぐろひょうすけはすぐ打消うちけした。そして極力きょくりょく自分じぶんたしかめてたところをもって、自分じぶん保証ほしょうづけるように喋舌しゃべっていると――
「や?」
 いている伝七郎でんしちろうきゅうよこれた。
 ――ると、蓮華王院れんげおういん庫裡くりのほうに、ポチと手燭しゅしょくらぎしている。ってるのは一人ひとりそうで、あとからだれやらいてくる人影ひとかげもわかる。
 そのふたつの人影ひとかげと、一点いってんちいさなは、やがて、さかいけて、三十三間堂さんじゅうさんげんどうながえんはしつと、こうひくこえはなしていた。
「――夜分やぶんは、どこもかしこも、っておりますので、ようぞんじませぬが、たしかよいころ、このあたりで、だんっていたお武家方ぶけがたがございましたから、それが、あなたのたずねているお方達かたたちかもわかりませんが、もう、だれもいないようでございますな」
 それは、そう言葉ことばだった。
 それにたいして、ていねいに、なにかれいをのべているのは、案内あんないされてほうもので――
「いや、せっかくおやすみのところを、お邪魔じゃまいたしてもうしわけありません。……あの彼方むこうしたに、二人ふたりほどただずんでおるようですから、あのものが、蓮華王院れんげおういんつといってよこした当人とうにんかもれません」
「では、たずねて御覧ごらんなさい」
「ご案内あんないは、もうここまでで結構けっこうです、どうぞお引取ひきとりくださるように」
「なにか、雪見ゆきみでもなさろうという御会合ごかいごうで?」
「まあ、そんなものです」
 と、一方いっぽうかるわらう。
 そう手燭しゅしょくして、
「いわでもがなのことではありますが、もしこのひさしのおちかくで、さっきのようにでもおきになる場合ばあいは、どうぞ、あとのこだけはご注意ちゅういくださいますように」
「わかりました」
「では御免ごめんを」
 そうは、そこのめて、庫裡くりのほうへってしまう。
 のこっていた一方いっぽうものは、じっと伝七郎でんしちろうほうながらしばらくただずんでいた。そこはひさしかげで、ほかの雪明ゆきあかりがすようにつよいために、そこのくらいのが、よけいにかんじられるのであった。
だれ? 兵助ひょうすけ

庫裡くりほうからてきたようですが?」
てらものではないらしいぞ」
「はてな」
 あゆむともなく、二人ふたり三十三間堂さんじゅうさんげんどうえんのほうへ、二十歩にじゅっぽほどちかづいてった。
 すると、御堂みどうはしのほうにえたくろ人影ひとかげ位置いちうつし、ながえん中程なかほどあたりまでると、そのあしをぴたりとめた。そしてむすびかけていた革襷かわだすきはしを、ひだりたもとのわきで、きびしくめているような様子ようすであった。その様子ようすまでをれる距離きょりまでは――何気なにげなくすすんでった二人ふたりであったが、ぎくっと、あしほうさきゆきなかからけなくなってしまった。
 そして、ふたいき三息みいきをおいてから、
「――あっ、武蔵むさし!」
 伝七郎でんしちろうおおきくいった。

 たがいに正視せいしって、
 武蔵むさし
 と伝七郎でんしちろう最初さいしょこえはっした途端とたんから、こう二人ふたり立場たちばは、すでに武蔵むさしほうが、絶対ぜったい有利ゆうりめていることをこの場合見ばあいみのがすことはできない。
 なぜ、というまでもなかろうが、一応いちおう二人ふたり対立たいりつしている地歩ちほるならば、武蔵むさし自分じぶんを、てきよりも何尺なんしゃくたかえんうえいている。反対はんたい伝七郎でんしちろうは、てきからした睥睨へいげいされている地上ちじょうにある。
 それのみでなく、武蔵むさしはまた絶対ぜったい背後うしろ安全あんぜんだった。三十三間堂さんじゅうさんげんどうながかべにしているのであるから、たとえ、左右さゆうよこから挟撃きょうげきしようとするものがあっても、えんたかさがおのずかひとつのふせぎをなしているし、後顧こうこなく、一方いっぽうてき意力いりょくをそそぐことができる。
 伝七郎でんしちろう背後うしろはといえば、無限むげん空地くうち雪風ゆきかぜであった。かりに相手方あいてがた武蔵むさしには、助太刀すけだちていないと承知しょうちしていても、そのひろ背中せなか空地あきちを、けっして無関心むかんしんでいるわけにはゆかなかった。
 だが、さいわいなことには、かれのそばには太田黒兵助おおたぐろひょうすけがいた。
退けっ、退いていろっ、兵助ひょうすけ――」
 こう、そではらうように、伝七郎でんしちろうがいったのは、むしろ兵助ひょうすけ下手へた手出てだしをしてくれるよりも、とおはなれて、一人ひとり一人ひとりとの絶対的ぜったいてきなこの地域ちいきを、見守みまもっていてくれたほうちからおもわれたにちがいないのである。
「よいか」
 これは、武蔵むさし言葉ことばだった。
 みずをかぶせるようなしずかないいかただったのである。
 伝七郎でんしちろうは、ひと目見めみるとともに武蔵むさしかおたいしても、そのあしさきまでを、
(こいつか)
 という憎念ぞうねんずにいられなかった。肉親にくしん意趣いしゅもある。ちまた取沙汰とりざた比較ひかくされている忌々いまいましさもある。また地方出ちほうで駈出かけだ剣客けんきゃくがというさげすみもあたまさきはいっている。
「だまれっ」
 かえすように語気ごきは、かれとしては自然しぜんだった。
「――よいかとは、なにがよいかというぞ。武蔵むさし! いぬ下刻げこくは、もうぎておる」
下刻げこくかねと、きっちり、同時どうじにとは約束やくそくしていない」
詭弁きべんくなっ。こっちはとうにて、このとお身支度みじたくしてちぬいていた。――さっ、りろ」
 不利ふり立場たちばのまま、無碍むげすすんでゆくほど、伝七郎でんしちろう相手あいてかろんじてはいない。当然とうぜんこういっててきさそった。
いま――」
 と、かるこたえておいて、武蔵むさしはそのに、ているようなまなざしだった。
 るといえば、伝七郎でんしちろう武蔵むさしのすがたをまえにしてから、満身まんしんにくたたかいの生理せいりおこしていたが、武蔵むさしのほうでは、かれ肉眼にくがん自分じぶんしめまえから、とうにたたかいを開始かいししているつもりで、たたかいの中身なかみってのぞんでている。
 証拠しょうこだてて、かれのその心事しんじをいってみるならば、かれはまず、わざとみちでもない寺院じいんなか通過つうかしていた。もうやすんでいる寺僧じそう世話せわまでかけて、ひろ境内けいだいあるかずに、この御堂みどうふちへ、いきなり建物伝たてものづたいにったのでもわかる。
 祇園ぎおん石段いしだんをのぼったときかれはもう多数たすう人間にんげん足痕あしあとゆきなかたにちがいない。あらゆる即智そくちはそこではたらいた。自分じぶんのうしろを尾行つけていたものかげ自分じぶんからはなれると、かれは、蓮華王院れんげおういん裏地うらじくのに、わざとそこの表門おもてもんはいってしまったのだった。
 寺僧じそうについて、十分じゅうぶんに、よいのうちからのこの附近ふきん予備知識よびちしき、そしてちゃものみ、だんり、すこ時刻じこくぎたのも承知しょうちしながら、唐突とうとつに、とうてき面接めんせつするというさくったのである。
 第一だいいちを、武蔵むさしはこうしてつかんだ。第二だいには、しきりといま伝七郎でんしちろうほうからさそうのであった。そのさそいにせてるのもまた戦法せんぽうだし、らして自身じしんからつくるのもまた戦法せんぽうである。勝敗しょうはいそうのわかれは、ちょうどみずうつっている月影つきかげている。理智りちちから過信かしんして的確てきかくにそれをつかもうとすればかえって生命いのちつきおぼらせてしまうにきまっている。