197・宮本武蔵「風の巻」「春の雪(7)雪響き(1)」


朗読「197風の巻39.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 49秒

 墨菊太夫すみぎくたゆうはやがて、先方せんぽうから返辞へんじをもろうてて、ふたたびそこへすわり、
「かんがんさまからおかえし」
 といって、紹由しょうゆう光悦こうえつまえへ、うやうやしく文箱ふばこをさしおいた。
 こちらからは、かるもちで、たわむれのむすぶみでやったのに、作法振さほうぶった文箱ふばこかえかたに、
あらたまったな」
 と、紹由しょうゆうはまず苦笑くしょうする。
 そして光悦こうえつかおあわせ、
「まさかこよい、わしどもがておろうとはおもわなかったろうから、連中れんちゅうも、きっとおどろいたにちがいないわさ」
 と、遊戯的ゆうぎてきなにかこう、してやったりというような気持きもちで、さて、文箱ふばこのふたをひらき、返辞へんじ手紙てがみをひろげてみると、それはなにもいてないただの白紙はくしではないか。
「……? おや」
 紹由しょうゆうはほかにこぼれたかみでもあるかと、自分じぶんひざをながめ、ねんのため、文箱ふばこなかをもういっぺんのぞいてみたりしたが、その白紙一枚はくしいちまいのほか、何物なにものもはいっていない。
墨菊太夫すみぎくたゆう
「はい」
「これはなんじゃ」
「なんですかわたくしにはかりませぬ。ただ、返辞へんじってゆけとっしゃって、これを、かんがんさまからわたされたのでってただけでござりまする」
「ひとを、小馬鹿こばかされたな。……それともこちらの名歌めいかに、すぐふでをとってよこすほどの返歌へんかもうかばで、あやまったという降参状こうさんじょうかな」
 なんでも自己じこのよいように解釈かいしゃくして、やたらにきょうがるのが紹由しょうゆうのもちまえらしい。だが、そのひとりぎめになに自信じしんがあるわけではないから、すぐ光悦こうえつへそれをしめして、
「のう、いったい、そのかえしは、どういう量見りょうけんじゃろう」
「やはりなにか、めというこころでございましょうな」
なにいてない白紙はくしを、どうみようもなかろうではないか」
「いえ、めばめないことはありません」
「では光悦こうえつどのは、これをどうむ?」
「――ゆき。……いちめんの白雪しらゆきとはめましょう」
「ム、ウム、ゆきか。いやなるほど」
吉野よしのはなをこちらへうつしてほしいという手紙てがみかえしですから、これは、ながめてさけむならば、はなならずとも――という意味いみでしょう。つまりおりからこよいはゆきのながめにもめぐまれているのだからそんなに多情たじょうおこさずに、障子しょうじでもはなして、ゆきだけでまあんでいるがよろしい――と、こういう返辞へんじわたしおもいますが」
「ヤ、小憎こにくいことを」と、紹由しょうゆうはくやしがって、
「そんなさむかたをしていられるものではない。先様さきさまがそうてござれば、こちらもだまってひっこんではおられぬ。なんとしてでも、吉野太夫よしのたゆうは、こちらの座敷ざしきえてながめねばおさまらぬぞ」
 紹由老人しょうゆうろうじんは、躍起やっきになって、くちびるかわきをはじめた。光悦こうえつよりはずっともうとしとっていてこのくらいだから、わか時分じぶんにはずいぶんトラになってひと世話せわをやかせたものだろうとおもわれる。
 光悦こうえつが、まあそのうちに、となだめるほうにつとめると、紹由しょうゆうでも吉野太夫よしのたゆうをつれていとおんなたちをこずらせる、それがまた、吉野太夫よしのたゆうそのものよりは、さけきょうをたすけるものとなって禿かむろたちもわらころげ、あそびの座敷ざしきはようやく、そとりしきるゆきとともにいまたけなわ景色けしきえた。
 武蔵むさしは、そっとせきった。
 おりがよかったので、だれかれせきいたのをがつかなかった。

雪響ゆきひび

 なにおもって、だまって酒席しゅせきけてたのか、武蔵むさし廊下ろうかることはたが、扇屋おうぎやおくひろさに、勝手かってがわからないで、ひとりでまごついていた。
 あかるい表座敷おもてざしきのほうには、遊客ゆうきゃくこえ音曲おんぎょくにぎわいたっているので、そこをけると、当然とうぜん、うすぐら母屋おもや布団ふとん部屋べやだの、道具部屋どうぐべやだのがにふれてる。台所だいどころちかいのであろう、くりや特有とくゆうなにおいがくらかべはしらからむしむしいていた。
「――あら、おきゃくさま。こんなほうへてはいけません」
 そこらのくら部屋へやからひょいとて、出合頭であいがしらをひろげ、こう、とおせンぼをしてちふさがった禿かむろがある。
 座敷ざしきのあかりでときのあどけなさや可愛かわいさはどこへかやって、ひどく自分じぶんたちの権利けんりでもおかされたように、とがてて、
「いやなおひと。こんなとこ、おきゃくさまのところではありません。はよう、あっちへってください」
 しかるようにてる。
 うつくしくせている自分じぶんたちのきたな生活せいかつうらを、ちょっとでも他人たにんのぞかれたのが、こんなちいさい禿かむろにも腹立はらだたしかったのであろう。同時どうじに、おきゃくのたしなみをらないおきゃくと、武蔵むさしさげすんでそういったのであろう。
「ア、……こっちへてはいけなかったのか」
 武蔵むさしがいうと、
「いけません、いけません」
 禿かむろは、武蔵むさしこしして、自分じぶんあるく。
 武蔵むさしはその禿かむろて、
「お、そなたは、さっきえんがわからゆきなかころげた、りんというだな」
「え、そうです。おきゃくさまは、お後架こうかこうとおもって迷子まいごになったんでしょう。わたしがれてってあげましょう」
 と、りんは、かれ自分じぶんをつないでさきった。
「いやいや、わしはっているのじゃない。すまないが、そこらのいている座敷ざしきで、茶漬ちゃづけいちわんべさせてくれないか」
御飯ごはん?」
 をまるくして、
御飯ごはんなら、お座敷ざしきってってあげますのに」
「でも、せっかくみなが、ああやって愉快ゆかいさけんでいるところだから――」
 武蔵むさしのことばに、りんくびをかしげて、
「それもそうですね。では、ここへっててあげましょう。ご馳走ちそうは、なにがいいんです」
「なにもいらない、にぎめしふたつほど――」
「おにぎりでいいんですか」
 りんは、おくけてった。武蔵むさしのぞんだものはすぐそこへた。あかりもない空部屋あきべやで、武蔵むさしはそれをおわってしまうと、
「そこの裏庭うらにわから、そとられるだろうな」
 と、く。
 そしてすぐ、武蔵むさしってえんくちあゆしたので、りんおどろいて、
「おきゃくさま、どこへくのですか」
「すぐもどってる」
「すぐもどってるといっても、そんなところから……」
表口おもてぐちからるのも億劫おっくう。それに、光悦こうえつどのや紹由しょうゆうどのがづくと、また、なにかとあのひとたちの遊興ゆうきょうさまたげるし、うるさくもあるからな」
「じゃあ、そこの木戸きどけてあげますから、すぐかえっていらっしゃいね。もしかえってないと、わたしがしかられるかもしれません」
「よしよし、すぐもどってるよ。……もし光悦こうえつどのがたずねたら、蓮華王院れんげおういん近所きんじょまで、知人しりびとうために中座ちゅうざしましたが、もなくかえってくるつもりですといってたとつたえてくれ」
ではいけません、きっとかえっててください。あなたのおあいての太夫様たゆうさまは、わたしのいている吉野太夫様よしのたゆうさまですからね」
 ゆき柴折戸しおりどけて、禿かむろのりんは、かれそとおくした。