190・宮本武蔵「風の巻」「町人(1)(2)」


朗読「190風の巻32.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 57秒

町人ちょうにん

 ここのいえほど「みず」というものの性能せいのうたくみに生活せいかつなかかして使つかっているいえすくないだろう。
 ――いえめぐるその水音みずおとこころよいせせらぎを、ふとみみにとめながら、武蔵むさしはそうおもった。
 本阿弥光悦ほんあみこうえついえである。
 ところは、武蔵むさしにとって記憶きおくのふかい蓮台野れんだいのからそうとおくない――上京かみぎょう実相院じっそういんあと東南とうなんにあたるつじかど
 そのつじを、本阿弥ほんあみつじまちもの所以いわれは、光悦こうえつ一軒いっけんがあるのみでなく、かれ素朴そぼく長屋門ながやもんとなりして、かれおいとか、同業どうぎょう職人しょくにんたちとか、一族いちぞくものがみなこのつじおもてうらに、なかよく、そのむかし土豪時代どごうじだい大家族制度だいかぞくせいどのようにのきをならべておだやかに町家暮まちやぐらしのいとなみをしているからだった。
(なるほど、こういうものか)
 武蔵むさしには、ものめずらかにえる世間せけんなのである。下層部かそうぶ町人ちょうにんたちの生活せいかつには、自分じぶん生活せいかつじってているが、この京都きょうとだれといわれるような大町人だいちょうにんというものには、まったくえんのなかったかれである。
 本阿弥家ほんあみけは、由緒ゆいしょのある足利家あしかがけ武臣ぶしんすえであるし、現在げんざいでも前田大納言家まえだだいなごんけから年禄二百石ねんろくにひゃっこくているし、宮家みやけにも知遇ちぐうをたまわっているし、伏見ふしみ徳川家康とくがわいえやすをかけたがっているし、――というわけで、職業しょくぎょうこそ、刀剣とうけんぬぐいをして、純粋じゅんすい職人しょくにんにちがいないが、ではその光悦こうえつさむらい町人ちょうにんかというと、ちょっとどっちともいえないようないえがらである。しかし、やはり職人しょくにんであり、町人ちょうにんであろう。いったい「職人しょくにん」という名称めいしょうが、このごろひどく下落げらくしてたが、それは職人しょくにん自分じぶん品性ひんせいおとしてたからで、上代じょうだいには、百姓ひゃくしょうは、天皇てんのうのおおみたから、とさえいわれて職業しょくぎょう上級じょうきゅうなものであったが、くだるにつれて、「この百姓ひゃくしょうめが」といえば侮蔑ぶべつ代名詞だいめいしになるようにかわってしまったのとおなじで、職人しょくにんという名称めいしょうも、もとけっして、下賤げせんわざではなかったのである。
 また大町人だいちょうにんあらうと角倉素庵すみのくらそあんでも、茶屋四郎次郎ちゃやしろうじろうでも、灰屋紹由はいやしょうゆうでも、みな武家出ぶけでであることも一致いっちしている。つまり室町幕府むろまちばくふ臣下しんかが、はじめは商業方面しょうぎょうほうめん一役所いちやくしょとしてやっていた実務じつむが、いつのまにか幕府ばくふはなれ、幕府ばくふからろくをもらう必要ひつようもなくなって、個人こじん経営けいえいになり、経営けいえいさい社交しゃこう必要ひつようが、武士ぶしという特権とっけんをも不必要ふひつようにさせて、おやからまごへと身代しんだいのうつるうちに、いつとなく町人ちょうにんというものになりかわってしまったのが、いま京都きょうと大町人だいちょうにんであり、また金力きんりょく所有者しょゆうしゃなのであった。
 だから、武家ぶけ武家ぶけとの権力けんりょく争覇そうはおこっても、そういう大町人だいちょうにんもんは、両方りょうほうから保護ほごされて、つづくことも代々永だいだいながつづいてているが、また御用立ごようだてをおおせつかることも、兵火へいかかれない税金ぜいきんのようになっているらしい。
 実相院じっそういんあと一廓いっかくは、水落寺みずおちでらとなで、有栖川ありすがわながれと、上小川かみこがわながれと、ふたすじ水脈すいみゃくはさまれていて、応仁おうにんらんおりには、一帯いったい野原のはらとなったところで、いまでも庭木にわきえなどするときは、あかかたなれやかぶとはちてくるといわれているが、本阿弥家ほんあみけ住居じゅうきょがここにできたのは、勿論応仁以後もちろんおうにんいごで、それ以後いごいえとしてはふるいほうであった。
 水落寺みずおちでら境内けいだいとおって、上小川かみこがわちてゆく有栖川ありすがわのきれいなみずは、中途ちゅうとから光悦こうえつ宅地たくち通過つうかしてゆくのである。――そのみずはまず、三百坪さんびゃくつぼほどな菜園さいえんあいだはしり、一叢ひとむらはやしにすがたをかくすと、つぎには玄関げんかん噴井戸ふきいどへ、千尺せんじゃくそこからたようなかおをしてあらわれ、一部いちぶ台所だいどころはしって、かしぎを手伝てつだい、一部いちぶ風呂場ふろばはいってあかり、また閑素かんそ茶室ちゃしつのどこかに、岩清水いわしみずのような滴々てきてきおとをさせているかとおもうと、ここの家族かぞくがみな「御研小屋おとぎや」と敬称けいしょうして、つね入口いりぐちには注連縄しめなわってある仕事場しごとば奔入ほんにゅうして――そこでは職人しょくにんたちのによって、諸侯しょこうからひきうけている正宗まさむね村正むらまさ長船おさふねや――だたる銘刀めいとうはじめ、あらゆるやいばぎぬかれている。
 武蔵むさしは、このいえて、この一間ひとま旅装りょそういて、今日きょうでちょうど四日目よっかめ五日目いつかめになる。

 此家ここあるじ光悦こうえつ妙秀みょうしゅう母子おやこに、いつか野辺のべちゃせきってから武蔵むさしは、おりもあらば、もいちどしたしくしてみたいが――とはこころのうちでおもっていたことだった。
 ところが、よくよくえんがあったというものか、再会さいかいが、あれから幾日いくにちたないうちにまたあった。
 ――というのは、この上小川かみこがわから下小川しもこがわ東寄ひがしよりに、羅漢寺らかんじというてらがある。その隣地りんちはむかし、赤松氏あかまつし一族いちぞくがいたやかたあとなので室町将軍家むろまちしょうぐんけ没落ぼつらくとともに、そういった旧大名きゅうだいみょう宅址たくしも、いまはあとかたもなくかわってはいるが、とにかく一度いちどそこをさがしてみたい気持きもちがして、武蔵むさし、そのへんあるいてみたのであった。
 武蔵むさし幼少ようしょうとき、よくちちくちから、
(わしはいまでこそ、こんな山家やまが郷士ごうしちているが、祖先そせん平田ひらた将監しょうげんは、播州ばんしゅう豪族赤松ごうぞくあかまつ支族わかれで、おまえのなかにはまさしく、建武けんむ英傑えいけつもながれているのだ。それをおまえは自覚じかくして、もっと自分じぶん大事だいじにしなければいかぬ)
 といったようなことをつねかされていた。下小川しもこがわ羅漢寺らかんじは、その赤松氏あかまつし宅地たくちとなっていた菩提寺ぼだいじなので、そこをたずねてみたら、祖先そせん平田氏ひらたし過去帳かこちょうなどもあるかもれない。ちち無二斎むにさいも、京都みやこおりは、一度訪いちどたずねて、祖先そせん供養くよういとなんだことがある、とかいてもいたし――またそんなふるいことがれないまでも、そういう有縁うえんって、ときには、自分じぶん血液けつえきにつながるとお過去かこ人々ひとびとしのんでみることも無意味むいみではなかろうと――武蔵むさしはしきりとその、その羅漢寺らかんじをさがしていたのである。
 下小川しもこがわながれに「らかんばし」というのがかっていた。しかし、羅漢寺らかんじというのは、たずねてもれなかった。
かわったのかなあ、このあたりも」
 武蔵むさしは、らかんばし欄干らんかんちながら――ちち自分じぶんとのわずか人間一代にんげんいちだいのうちにも、はげしく推移すいいしている都会とかいのすがたというものをかんがえていた。
 らかんばししたながれてゆくあさいきれいなみずが、時々ときどき粘土ねんどでもかすようにしろにごって、しばらくすると、また、それがきれいにんでいた。
 ると、そのはしからえるひだりがわのきしくさむらから、チョロチョロとにごみずされて、それがかわそそまれるたびごとに、しろいささにごりがひろがってゆくのであった。
(ははあ、かたないでいるいえがあるナ)
 武蔵むさしはそうおもったが、そのいえきゃくとなって、それから四日よっか五日いつかとまろうなどとはゆめにもおもっていなかった。
武蔵むさしどのじゃないか)
 どこかへもどりらしい妙秀尼みょうしゅうにに、こうびとめられて、そこが本阿弥ほんあみつじ近所きんじょだったということも、あとからはじめてがついたほどなのである。
(ようたずねててくだされたのう――光悦こうえつもきょうはいるほどに、まあまあ、そう遠慮えんりょなどせいで……)
 と妙秀尼みょうしゅうには、かれ路傍ろぼうつけたことの偶然ぐうぜんよろこんで、武蔵むさしがわざわざ自分じぶんいえてくれたもののようにおもいこみ、長屋門ながやもんうちれてはいって、下男げなんをやってすぐ、光悦こうえつんでさせる。
 光悦こうえつといい、妙秀みょうしゅうといい、いつぞやそとったときも、こうして家庭かていときも、すこしもかわらないよいひとたちだった。
わたしはただいま大事だいじなお研物とぎものかけておりますので、しばらくはははなしていてください。仕事しごとをすませば、いくらでもゆるりとはなしますから)
 光悦こうえつがいうので、武蔵むさし妙秀尼みょうしゅうに相手あいてにくつろいでいたが、そのばんがついおそくなってしまうと、まあ今夜こんやはということになり、あくになるとまた武蔵むさしのほうから光悦こうえつに、かたなとぎあつかいについておしえをうと、光悦こうえつ自分じぶんの「御研小屋おとぎや」へかれ案内あんないして、実際じっさいうえからいろいろいてかせるといったようなわけになって――いつか三晩みばん四晩よばんもこのいえ布団ふとん武蔵むさしじませてしまったような次第しだいであった。