189・宮本武蔵「風の巻」「鍬(3)(4)」


朗読「189風の巻31.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 36秒

「そこへ、げてゆくのは又八またはちではないかっ。――これっ、老母ははをおいて、どこへくぞっ、卑怯者ひきょうもの不孝者ふこうものたんかっ」
 おすぎ襟首えりくびおさえながら、沢庵たくあんやみむかって、なおこういっていた。
 ばばは、沢庵たくあんひざしたくるしげにもがきながら、
「たれじゃ、何奴どやつじゃ」
 と、なお虚勢きょせいうしなわない。
 又八またはちかえしてくる様子ようすもないので、沢庵たくあんをゆるめて、
「わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか耄碌もうろくしたのう」
「オーッ、沢庵坊主たくあんぼうずじゃの」
「おどろいたか」
「なんの!」
 猛々たけだけしくばば白髪しらがひかくびよこってさけんだ。
「どこくらくのう世間せけんをうろついている物乞ものご坊主ぼうずいまはこの京都きょうとながれておじゃったか」
「そうそう」
 沢庵たくあんはにこりとむくいて、

「ばばのいうとおり、さきごろまでは柳生やぎゅうだに泉州せんしゅうあたりをうろついていたが、ついゆうべ、ぶらりとみやこへやっててな、さるおかたのおやかたで、ちらとちぬ沙汰さたみみにしたので、これはいかん――ておけぬ大事だいじおもい、黄昏たそがれからおぬしたちさがしあるいていたのじゃよ」
なんようで?」
「おつうにもおうとおもって」
「ふーム」
「おばば」
「なにかや」
「おつうはどこへった」
らん」
らんことはあるまい」
「このおばばは、おつうひもをつけてあるいてはおりませぬぞよ」
 提燈ちょうちんってうしろにっている旅籠はたご手代てだいが、
「……ヤ。おぼうさま、がこぼれております、生々なまなましいしおが」
 あかりへ俯向うつむいた沢庵たくあんかおが、さすがにすここわばってみえた。
 ――すきて、お杉婆すぎばば突然起とつぜんたちあがってげだした。
 振向ふりむいて、沢庵たくあんはそのまま、
たっしゃれ! おばば! おぬしは家名かめいどろをすすぐとて故郷くにて、家名かめいどろをなすってかえるのかっ。可愛かあいゆうていえながら、その不幸ふこうにしてもどるのかっ」
 じつおおきなこえなのだ。
 沢庵たくあんくちからているようにはきこえないのである。宇宙うちゅう呶鳴どなったようにそれはばば全身ぜんしんをつつんできこえた。
 ぎくと、ばばあしをとめた。かおしわがみなけんかおえがいて、
「なんじゃと、わしが家名かめいどろのうわりをし、又八またはちをよけいに不幸ふこうにするとおいいやるか」
「そうだ」
阿呆あほうな」
 せせらわらって――しかしなにをいわれたよりも真剣しんけんになって、
布施飯ふせめしくうて他人たにんてら宿借やどかりして、くそしてばかりある人間にんげんに、家名かめいじゃとか、あいじゃとかいう、世間せけんのほんとのくるしみがわかってたまるものかいの。ひとなみなくちをたたくなら、ひとなみにはたらいてこめわッしゃれ」
いたいことをいう。そういってやりたい坊主ぼうず世間せけんにはあるから、わしにもすこいたい。七宝寺しっぽうじにいたころから、くちではおばばにかなわないとおもっていたが、相変あいかわらずそのくち達者たっしゃだのう」
「オオさ、まだまだこのばばにはこの大望たいもうがある、達者たっしゃくちばかりとおもうてか」
「まあいい。――んだことは仕方しかたがないとしてはなそうじゃないか」
「なにを」
「おばば、おぬしはここで、又八またはちにおつうらしたな。母子おやこでおつうあやめたであろうが」
 そういうだろうとっていたように、ばばはとたんにくびばしてわらった。
沢庵坊たくあんぼう提燈持ちょうちんもってあるいても、ってあるかにゃなかくらやみじゃぞ。おぬしのは、かざものか、ふしあなか」

 このばば翻弄ほんろうされることには、沢庵たくあんもどうしようがないらしい。
 無智むちはいつでも、有智ゆうちよりも優越ゆうえつする。相手あいて知識ちしきを、てんとして無視むしってしまう場合ばあいに、無智むち絶対ぜったいにつよい。生半可なまはんか有智ゆうちほこ無智むちむかって、ほどこすにすべがないという恰好かっこうになってしまう。
 ふしあなか、かざものかと、ばばののしられたをもって、沢庵たくあんがそのをよくよくあらためると、なるほど、死骸しがいはおつうではなかった。
 で――ほっとしたかおかれがするとすぐ、
沢庵坊たくあんぼう、ほっとしたであろうが。おぬしは、そもそも、武蔵むさしとおつうとをくッつけた不義ふぎ媒人なこうどじゃほどにの」
 と、多分たぶん遺恨いこんをふくんだくちぶりでいう。
 沢庵たくあんは、さからわずに、
「そうかんがえているなら、そうしておくもよい。――だがおばば、おぬしの信心しんじんぶかいことをわしはっているが、この死骸しがいをすててゆくほうはあるまい」
そこのうていただおれ、ったは又八またはちじゃが、又八またはちのせいじゃない。っておいても人間にんげんであったじゃろ」
 すると旅籠はたご手代てだいが、
「そういえば、この牢人者ろうにんものは、すこし頭脳あたまもおかしいようなあんばいで、先頃さきごろからよだれらしてまちをふらふらしておりましてな、なにかでひどくたれたような大疵おおきずあたまのてっぺんにっておりましたよ」
 とはなす。
 そんなことは、どうでもいいように、ばばはもうさきあるいてみちさがしていた。沢庵たくあんは、死骸しがい始末しまつ旅籠はたご手代てだいにたのんで、ばばあとからいてく。
 になるとみえ、ばばかえって、また毒口どくぐちでもはなちたいようなかおをしたが、
「――おばば、おばば」
 樹蔭こかげから小声こごえでよぶものかげて、うれしそうにそこへはしった。
 又八またはちだった。
 さすがにである、げたのかとおもっていたら、やはり老母ははあんじて様子ようすていたのかと、ばばはたまらないほど、わが気持きもちうれしくう。
 沢庵たくあんかげ振向ふりむいて、母子おやこなにかささやきっていたが、やはり沢庵たくあんのどこかをおそれるもののように、二人ふたりきゅうあしはやし、ふもとのほうへくほどはやはしっていた。
「だめだ……あの様子ようすでは、まだなにをいってかせてもけつけまい。なかから、おもちがいというものだけのぞいたら、ずいぶん人間にんげん苦労くろうすくなくなるがなあ」
 母子おやこかげ見送みおくりながら、沢庵たくあんはつぶやいていた。かれあしは、いそごうともしないのだ。――おつうさがすことを急務きゅうむとしているから。
 だがいったい、おつうはどうしてしまったものだろう。
 あの母子おやこやいばから、どうしたはずみかでおせたことは確実かくじつていい。沢庵たくあんはこころのうちで、先刻さっきからおおきなよろこびをむねひろっていた。
 けれどたせいか、おつうきている無事ぶじかおないうちは、なんとなく落着おちつかない。よるけるまで、もひとつさがしてみようとおもう。
 そう決心けっしんしていると、さっきがけがってった旅籠はたご提燈ちょうちんが、そこらの堂守どうもりたちでもりあつめてたらしく、ななやっつのかずえて、ふたたびがけりてた。
 だお牢人ろうにん赤壁あかかべ八十馬やそま死骸しがいを、そのままがけした埋葬まいそうしてしまうつもりらしく、早速さっそくかついでくわすきるって、ドスッ、ドスッ、と夜陰やいんそこ不気味ぶきみなひびきをふるわせる。
 そのあながあらかたれたかとおもえるころ
「や、ここにも一人死ひとりしんでるぞ、ここのはれいな女子おなごだ」
 だれかがわめいた。
 あなっている場所ばしょからものの五間ごけんはなれていない場所ばしょなのだ。滝水たきみずながれがわかれてて、ちいさなぬまくさにおおわれているそのふちだった。
「これは、んでない」
んでいるものか」
うしなっているだけだ」
 あつまった提燈ちょうちんが、がやがやさわいでいるのをて、沢庵たくあんけもどってるのと同時どうじに、旅籠はたご手代てだいが、大声おおごえ沢庵たくあんかえしていた。