187・宮本武蔵「風の巻」「悲母悲心(9)(10)」


朗読「187風の巻29.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 46秒

 刃物はものった人間にんげんはそうこわいものではないが――しかし、刃物はものたれている人間にんげんこわい。
 おつうがとたんに、
 ひいっ――とこえをあげたのも、刃物はものさきよりも、又八またはちかおにあらわれたそのこわさだった。
「よくも。――この阿女あま
 又八またはちかたなは、おつうおびむすをかすめていた。
がしては)
 と、焦心あせってて、又八またはちは、
「おばば、おばばっ」
 と、おつういかけながら、一方いっぽうへはてる。
 こえとどいたとみえる、お杉婆すぎばば彼方あなたで、
「おう」
 といった。
 跫音あしおとあてにはしってながらばばは、
仕損しそんじたか」
 自分じぶん小脇差こわきざしいて、うろうろあわてまわる。
 又八またはち彼方あなたから、
「そっちだ、おばば、つかまえろっ」
 呶鳴どなりながらけてるのをて、ばばさらのようにし、
「ど、どこへ」
 と、みちふさいでいた。
 しかし、おつうかげえないで、又八またはちのからだがつかるようにまえた。
ったかよ」
がした」
阿呆あほうっ」
「――しただ。あれがそうだ」
 がけのぞんでりていたおつうは、がけしたえだたもとをとられてもがいていた。
 たきつぼにちかいところとみえ、水音みずおとやみはしってゆく。あしもとなどはようともしないのだ。おつうほころびたたもとをかかえ、ころぶようにまたした。
 母子おやこ跫音あしおとはすぐせまってた。ばばこえで、
「しめたぞよ」
 というのがみみうしろからきこえる。おつうはもうげても無駄むだがしてしまった。それに、まえよこかべかこまれているようにくらいそこはがけ低地ていちでもある。
又八またはちっ、はようれ。――それ、おつうめがたおれくさったぞ」
 ばば叱咤しったされて、いま完全かんぜん刃物はものおどらされている人間にんげん又八またはちは、ひょうのようにまえんで、
「――畜生ちくしょうっ」
 と、かや灌木かんぼくあいだまろびこんだおつうがけて、かたなりおろした。
 えだれるひびきがしたとおもうと、そのしたから――きゃっと、きたものの絶命ぜつめいしおがねあがった。
「この阿女あま、この阿女あま
 三太刀みたち四太刀よたち、まるでったようにをつりあげた又八またはちは、灌木かんぼくえだかやもろとも、かたなれよとばかり、幾度いくどもそこをなぐりつづけた。
「…………」
 なぐりくたびれると、又八またはち血刀ちがたなをさげたまま、茫然ぼうぜんと、いからめかけた。
 ――るとにも。――かおでるとかおにもぬるい、ねばりのある液体えきたいが、りんのようにからだじゅうへねているのである。
 その一滴一滴いってきいってきが、おつう生命いのち分解ぶんかいされたものかとおもうと、かれはふらふらとめまいをかんじ、に、かおあおざめてきた。
「……ふ、ふ、ふ。……せがれよ、とうとうりおったのう」
 お杉婆すぎばばは、茫然ぼうぜんとしている息子むすこうしろから、そっとかおして、滅茶滅茶めちゃめちゃせられている灌木かんぼくくさむらのそこをじっと見入みいった。
「よい気味きみ! ……もうともせぬわ。――出来でかしたぞよせがれ。やれやれこれでむねのつかえが半分はんぶんはさがったというもの。故郷くにしゅう幾分いくぶん面目めんぼくつわいのう。……又八またはち、これ、どうしたぞよ。はようくびれ、おつうくびげい」

「ホ、ホ、ホ」
 ばばは、息子むすこ小胆しょうたんをわらいながら、
「――意気地いくじないやつ。人間にんげんひとりったくらいで、かたいきをつくようなことでどうするぞ。くびけぬなら、ばばくびげてくれる。――そこを退きゃい」
 まえようとすると、自失じしつしたように棒立ぼうだちになっていた又八またはちが、にぎっているかたな柄頭つかがしらで、いきなり老母ははかたをどんといた。
「――わっ、な、なにしやる」
 あぶなく、ばばそこのわからない灌木かんぼくなかこしをつこうとしたが、からくも足元あしもとささめた。
又八またはちは、どうしたのか。老母ははむかって――なんたることをしやる」
「おふくろ!」
「……なんじゃア?」
「…………」
 異様いようこえを、はなのどさかいみころしながら、又八またはちは、のついているこうをこすった。
「……おら……おらあ……おつうった! おつうった」
めてやっているではないかよ。――それをなんでくか」
かずにいられるかっ。……馬鹿ばか馬鹿ばかっ、馬鹿婆ばかばばアめ!」
「かなしいのか」
「あたりまえだ! おばばのようなくたばりそこないがきていなければ、おれは、どんなことをしても、もいちど、おつう気持きもちりもどしてせたんだ。くそっ、家名かめいがなんだ、故郷くにやつらへの面目めんぼくがなんだ。……だが、もう駄目だめだ……」
れた愚痴ぐちをいやる。それほど未練みれんがあるのなら、なぜばばくびって、おつうたすけなかったのじゃ」
「それが出来できるくらいなら、おれはいたり愚痴ぐちをいったりしやしねえ。なかに、わからずやのとしよりをったくらい、不倖ふしあわせなことはねえ」
「よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角せっかく出来でかしおったとめているのに」
勝手かってにしろ。……おれはもう一生涯いっしょうがい、やりたい放題ほうだいのことをやって、たらおくってやるぞ」
「それがわる気質たちじゃ。たんと駄々だだをいうて、この年老としとったははこまらせるがよいわ」
こまらしてやるとも、くそったればばめ、鬼婆おにばばめ!」
「オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを退きなされ。いま、おつうくびって、それからとっくりとはなしてしんぜる」
「た、たれが、薄情婆はくじょうばば談義だんぎなどをくかっ」
「そうでない、どうはなれたおつうくびてからじっとかんがえてみるがよいわさ。美貌きれいがなんじゃあ……うつくしい女子おなごねば白骨はっこつ……色即是空しきそくぜくうせてしんぜよう」
「うるせえッ、うるせえッ」
 又八またはちは、くるわしげに、つよくかぶりをって、
「……アーア。かんがえてみると、おれののぞみはやっぱりおつうだった。時々ときどき、これじゃいけないとおもって、なにか立身りっしんみちさがそう、なにかひとはげみをそうと、真面目まじめ奮発ふんぱつおこるのも、そのときには、おつううことをかんがえているからだった。――家名かめいでもねえし、こんなくそばばアのためでもねえ。――おつうのぞみにあったればこそ」
「よしないことをいつまでなげいておじゃるぞ。そのくち念仏ねんぶつでもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ」
 いつのにか、ばば又八またはちまえて、らしたような灌木かんぼく枯草かれくさけていた。
 ……そのそこに、くろ仏体ぶったいしている。
 ばばは、くさえだいて、いんぎんにそのまえすわった。
「……おつう、わしをうらむな、ほとけとなれば、わしもそなたにうらみはない、すべては約束やくそくごと。頓証菩提とんしょうぼだい
 さぐりながら――さぐてた黒髪くろかみらしいものをきゅっとつかんだ。
「――おつうさん!」
 そのとき音羽おとわたきのうえのあたりで、こうだれんだこえが、こえか、ほしこえかのように、くらかぜなかをまわって、この低地ていちへもきこえてた。