186・宮本武蔵「風の巻」「悲母悲心(7)(8)」


朗読「186風の巻28.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 09秒

 老母ははとおつうとのあいだに、どんな約束やくそくわされていたのだろうか。もとよりおばばのいい加減かげんどもだましにはちがいない。そうかんがえられるので又八またはちは、おつういまいったことばにも、
「いや、まあ、おち」
 かおさきって、そのことばのそこにある彼女かのじょ意思いしおうとしなかった。
「――以前いぜんのことなんかいわれると、おれはつらい。まったくおれがわるいのだ。いまさら、おまえにあわせるかおもない次第しだいで――おまえのいうとおり、これがわすれられるものならば、わすれてしまいたいと山々思やまやまおもう。だがおもうだけで、なんの因果いんがか、おれはおまえをあきらめきれない」
 おつうは、当惑とうわくして、
又八またはちさん、二人ふたりこころこころのあいだには、もうかようもののないふか谷間たにまができました」
「その谷間たにまに、五年ごねん年月ねんげつながれてったのだ」
「そうです、年月ねんげつかえらぬように、わたしたちのむかしのこころも、もうびもどすことは出来できません」
「で、できないことはないよ! おつう、おつうっ」
「いいえ。――できません」
 おつうのそういうひややかな語尾ごびかおいろにおどろいて、いまさらのようにひとみをすえてしまう又八またはちであった。
 情熱じょうねつおもてにあらわれるときは、真紅しんくはな太陽たいようくるいあうなつおもわせるような性質せいしつのあるおつう一面いちめんに――こんなひややかな――まるでしろ蝋石ろうせきでるようなかんじのする――そしてゆびれればれそうなきびしい性格せいかくが、どこにひそんでいただろうか。
 そういうつめたいおもて彼女かのじょていると、又八またはちあたまにはふと、七宝寺しっぽうじ縁側えんがわおもされた。
 ――あの山寺やまでら縁側えんがわで、なにかかんがえごとをしながら、うるみのあるで、半日はんにちでも一日いちにちでも、そらだまっているとき孤児こじのすがたを。
 ははくも――ちちくも――兄弟はらから友達ともだちくもよりしかないとおもっているような――孤児こじちのなかに、いつのまにか、はぐくまれていた、このつめたさにちがいない。――又八またはちはそうおもった。
 そうかんがえたので、かれ彼女かのじょのそばへそっとって、とげのある白薔薇しろばらさわるように、
「……やりなおそう」
 ほおへささやいた。
「……ね、おつう。――かえらない年月ねんげつんでみたってはじまらないじゃないか。これから二人ふたりして、やりなおそう」
又八またはちさん、あなたはどこまでかんがちがいをしているのですか。わたしのいっているのは、年月ねんげつのことではありません、こころのことです」
「だからさ、そのこころを、おれはこれからなおすよ。自分じぶんでいいわけしてもへんだけれど、おれがやったあやまちぐらいは、わかいうちはだれにだってありちなはなしじゃないか」
「どうっしゃっても、わたしこころはもうあなたの言葉ことば本気ほんきこうといたしません」
「……わるかッたよ! こんなにおとこあやまっているのじゃないか……え、おつう
「およしなさい、又八またはちさん、貴方あなたもこれからおとこのなかへきてゆくおとこでしょう。こんなことに……」
「でも、おれには、生涯しょうがい重大事じゅうだいじだ。をつけというならをつく。おまえが、ちかいをてろというなら、どんなちかいでもきっとてる」
りません!」
「そう……おこらないでさあ……ね、おつう、ここじゃあ、しんみりはなしができないから、どこか、ほかへこう」
いやです」
「おばばがるとまずい。……はやこう。おれには、とてもおまえをころせない。どうして、おまえをころせるものか」
 ると、そのは、又八またはちゆびをつよくって、
いやですッ。ころされても、あなたとひとつのみちあるくのはいやですっ」

いやだと?」
「ええ」
「どうしても」
「ええ」
「おつう、それではおまえは、いままで武蔵むさしおもっていたのだな」
「おしたいしています――二世にせまでちかうおひとはあのおかたこころめて」
「ウウム……」
 又八またはちをふるわして、
「いったな、おつう
「そのことは、婆様ばばさまみみへもれてあります。そして、婆様ばばさまからあなたにげ、このさい、はっきりとはなしをつけたほうがよいとっしゃるので、こういうおり今日きょうまでっていたのです」
「わかった……おれにってそういえと――それも武蔵むさし指図さしずだろう。いいやそうにちがいねえ」
「いいえ、いいえ。自分じぶん生涯しょうがいめること、武蔵様むさしさまのお指図さしずはうけません」
「おれも意地いじだ。――おつうおとこには意地いじがあるぞ。てめえがそういう量見りょうけんならば……」
「なにするんですッ」
「おれもおとこだっ。おれの生涯しょうがいけても、武蔵むさしわせてたまるものか。――ゆるさぬっ! たれがゆるす!」
ゆるすの、ゆるさぬのと、それはだれむかってなんのことをっしゃるのですか」
「てめえにだ! また武蔵むさしにだ! おつう貴様きさま武蔵むさし許嫁いいなずけではなかったはずだぞ」
「そうです……、けれども、あなたがそうっしゃるすじはございますまい」
「いや、ある! おつうというものは、もともと本位田又八ほんいでんまたはち許嫁いいなずけだ。又八またはちがうんといわねえうちは、だれつまになることも出来できないはずだ。ましてや…………武蔵むさしずれに!」
卑怯ひきょうです、未練みれんです、いまさらそんなことがよういえたもの。わたしはあなたとおこうというひととの二人名前ふたりなまえで、ずっとまえに、縁切状えんきりじょうをいただいてありました」
らないっ、そんなものをおれはしたおぼえがない。おこう勝手かってしたのだろう」
「いいえ、そのじょうには貴方あなた立派りっぱにないえんとあきらめて、他家たけかたづいてくれといてありました」
「み、せろ、それを」
沢庵たくあんさんがて、わらいながらはなをかんでててしまいました」
証拠しょうこのないことをいっても世間せけんへはとおるまい。おれとおつうとが許嫁いいなずけだということは、故郷くにけばらないものはない。こっちにはいくらでも証人しょうにんてられるが、そっちには証拠しょうこのないはなしだ。……なあおつう世間せけんせまくしてまで、無理むり武蔵むさしってみたって、しあわせにくらせるはずはないぜ。おまえは、おこうのことをまだうたがっているかもれねえが、あんなおんなとは、もうきれいにっているのだ」
うかがってもむだなこと、そんなはなし、おつうぞんじたことではありません」
「……じゃあこれほどに、おれがあたまげても」
又八またはちさん、あなたはいま、おれもおとこだとっしゃったではありませんか。はじらないおとこなどへ、どうしておんなこころがうごきましょう。おんなもとめているおとこは、女々めめしくないおとこです」
「なんだと」
「おはなしなさい、たもとれますから」
「ち、ちくしょうっ」
「どうするんですっ――なにをなさるのです」
「もう……これまでいってもわからねえなら、やぶれかぶれだ」
「えっ……」
生命いのちしいとおもったら、武蔵むさしのことなどおもいませんと、ここでちかえ、さあちかえ」
 たもとはなしたのは、かたなくためであった。やいばくと、やいば人間にんげんったように、又八またはち人相にんそうはまるでかわってしまった。