185・宮本武蔵「風の巻」「悲母悲心(5)(6)」


朗読「185風の巻27.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 30秒

「それじゃあ、おばばは、おれのでおつうれというのか」
「……いやか!」
 おにのことばのようである。
 又八またはちは、自分じぶんははなかに、こんなこえ性質せいしつがあったろうかとうたがった。
いやならいやといえ。猶予ゆうよはならぬことじゃ」
「だ……だって、おばば」
「まだ未練みれんをいいおるか。エエ、もうおのれのようなやつでない、ははでない! ……。おんなくびれまいが、ははくびなられるであろう。介錯かいしゃくしやい」
 もとよりおどしにちがいないが、脇差わきざしなおして、ばば自害じがいのていをせた。
 のわがままもずいぶんおやをてこずらすが、おや駄々だだ随分子ずいぶんこどもをてこずらす場合ばあいがある。
 おすぎのもその一例いちれいぎないが、この年寄としより下手へたをすると、ほんとにやりかねまじき血相けっそうなのだ。息子むすこからても、ただのとはえないのである。
 又八またはちはふるえがって、
「おばば! ……そ、そんな短気たんきなことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれはあきらめる」
「それだけか」
成敗せいばいしてみせる。おれので……おれのでおつうを」
るかよ?」
「ム。ってみせる」
 ばばは、うれしきにいて、脇差わきざしてたで、しいただいた。
「よういやった、それでこそ本位田家ほんいでんけ世継よつ息子むすこ、あっぱれもの御先祖ごせんぞさまもっしゃろう」
「……そうかなあ?」
ってい。おつうは、すぐこのした塵間塚ちりまづかまえたせてある」
「ウム……今行いまいくよ」
「おつうくびにして、添状付そえじょうつけて、さき七宝寺しっぽうじおくりとどけてやろうぞ。むらもののうわさだけでも、わしらの面目めんぼく半分はんぶんつ。――さてつぎには武蔵むさしめじゃが、これも、おつうたれたとけば、意地いじでもわしら母子おやこまえるじゃろう。……又八またはち、はようってい」
「おばばは、ここでっているか」
「いや、わしもいてくが、わしが姿すがたせると、それでははなしがちがうのなんのと、おつうめがわめいてうるさかろう。わしはすこはなれた物蔭ものかげからております」
「……おんなひとりだ」
 よろりと又八またはちって――
「おばば、きっとおつうくびにしてるから、ここでっていたらいいじゃないか。……おんなひとりだ、大丈夫だいじょうぶがしゃあしない」
「でも、油断ゆだんをしやるなよ、あれでも刃物はものれば、相当そうとう手抗てむかいはするぞ」
「いいよ……なにくそ」
 自分じぶんをこう叱咤しったしながら、又八またはちあるきだした。不安ふあんそうにお杉婆すぎばばもそのあといて、
「よいか、油断ゆだんするなよ」
「なんだおばば、いてるのか。っていろ」
「よいわ、塵間塚ちりまづかは、まだそのした――」
「いいといったら!」
 又八またはちは、かんやぶって、
二人ふたりでゆくくらいなら、おばば一人ひとりってい。おれはここでっている」
「なにをしぶっていやるのじゃ、おぬしはまだ本心ほんしんからおつうになっておらぬの」
「……あれだって人間にんげんだ、ねこるような気持きもちじゃれない」
無理むりもない……たといどのように不貞ふていおんなでも、もとはおぬしの許嫁いいなずけであったげな。……よいわ、ばばはここにいましょう、おぬし一人ひとりって見事みごとにしてやれ」
 又八またはち返辞へんじもせず、うでぐみをしたまま、ゆるいがけみちりてった。

 さっきからおつうは、塵間塚ちりまづかのまえにただずんでお杉婆すぎばばるのをっていた。
(いっそ、こんなときに)
 とげるすきかんがえないでもなかったが、それでは二十日はつかあまりこらえてきた忍苦にんくがなんの意味いみもなさなくなってしまう。
(もうすこしの辛抱しんぼう
 おつうは、武蔵むさしおもい、城太郎じょうたろうのことをかんがえ――そしてぼんやりほしていた。
 武蔵むさしむねえがいていると、彼女かのじょむねには無数むすうほしかがやいた。
いまに。いまに……)
 ゆめみるように、将来ゆくすえ希望きぼうをかぞえてみる。また国境こっきょうやまでいったかれのことばを――花田橋はなだばしのたもとでいったかれちかいを――むねのうちで繰返くりかえしてみるのだった。
 たとい年月ねんげつっても、それを裏切うらぎ武蔵むさしではないことを、彼女かのじょはかたくしんじていた。
 ――ただ朱実あけみという女性じょせいおもいうかべると、ふといや気持きもちがして、希望きぼうくらいかげをしてくるが、それとても、武蔵むさしたいする強固きょうこ信頼しんらいにくらべればものかずでもない、不安ふあんというほどなうれいでもない。
花田橋はなだばしわかれたきり、えもしない、はなせもしない……。それでも自分じぶんはなにかしらたのしい。沢庵たくあんさんは可哀かわいそうなというけれど、こんな幸福こうふくでいるわたしが、どうして沢庵たくあんさんのには、不幸ふこうえるのかしら……)
 はりのむしろにすわってはりはこんでいるあいだも――ちたくないひとってくらさみしいなかたたずんでいるあいだも――彼女かのじょはひとりでたのしむことにたのしんでいるのだった。そして他人たにんには空虚くうきょえるときが、いちばん彼女かのじょ生命せいめい充実じゅうじつしているときだった。
「……おつう
 ばばこえではない。――だれかこうくらがりからものがあった。おつうはわれにかえったように、
「……え。どなたです」
「おれだよ」
「おれとは」
本位田又八ほんいでんまたはちだ」
「えっ?」
 退いて――
又八またはちさんですって」
「もうこえまでわすれたかい」
「ほんに……ほんに又八またはちさんのこえですね。婆様ばばさまいましたか」
「おばばは、彼方むこうたせておいた。……おつう、おまえはかわらないなあ。七宝寺しっぽうじにいた時分じぶんと――ちっともかわっていない」
又八またはちさん、あなたはどこにいるんですか。くらくてあなたの姿すがたはわかりません」
「そばへってもいいかい。……おれは面目めんぼくないがして、先刻さっきからここへていたが、しばらくうしろのやみにかくれて、おまえの姿すがたていたんだ。……おまえはそこでいま、なにをかんがえていたのか」
「べつに……なにも」
「おれのことをかんがえていてくれたのじゃないのか。おれは一日いちにちだって、おまえのことをおもさないはなかったぜ」
 そろそろあゆって又八またはち姿すがたがおつううつった。おつうばばがいてくれないので、不安ふあんおそわれた。
又八またはちさん、お婆様ばばさまから、なにかはなしきましたか」
「ア、いまこのうえで」
「じゃあ、わたしのことを」
「うむ」
 おつうは、ほっとした。
 かねてばば約束やくそくしてくれたとおりに、自分じぶん意思いしは、ばばくちから又八またはちつうじてくれたものとおもった。そして又八またはちはその承諾しょうだくあたえてくれるために、ここへ一人ひとりたのであろうと解釈かいしゃくしていた。
婆様ばばさまからおきならば、わたし気持きもちはもうわかってくれたはずですが、わたしからもおねがいいたします、又八またはちさん、どうぞ以前いぜんのことは、えんのなかったものとおもって、今夜こんやかぎりわすれてくださいましね」