183・宮本武蔵「風の巻」「悲母悲心(1)(2)」


朗読「183風の巻25.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 59秒

悲母悲心ひぼひしん

 たきおとがする――みずすわけでもないがよるおおきくみみへひびく。
地主権現じしゅごんげんというのはたしかこれじゃろが。……地主桜じぬしのさくらと、この立札たてふだにもいてある」
 清水寺きよみずでらのわきの山道やまみちをかなりのぼってたのである。しかしばばは、いきれたともいわない。
「――せがれせがれ
 そこのどうまえつと、すぐやみへこうぶ。
 かおつきにも、こえにも、真実しんじつ愛情あいじょうがふるえていた。うしろにっているおつうには、べつな老婆ろうばのようにおもえた。
「おつう提燈あかりすなよ」
「はい……」
「いない、いない」
 ばばは、くちのうちでつぶやきながら、そこらをめぐあるいて、
手紙てがみには、地主権現じしゅごんげんまでてくれとあったが」
今夜こんやいてございましたか」
「きょうとも明日あすともしてないのじゃ、幾歳いくつになってもあのときては子供こどもじゃでのう。……それより自分じぶん旅宿やどればよいに、住吉すみよしのこともあるので、がわるいのじゃろ」
 おつうたもとっぱって、
「お婆様ばばさま又八またはちさんではありませんか。――だれしたからのぼってるようです」
「エ、いたか」
 がけみちをさしのぞいて、
せがれ――」
 やがてのぼってものは、そういうお杉婆すぎばばにはもくれないで、地主権現じしゅごんげんうらまわり、またそこへもどってると、ちどまって、提燈ちょうちんあかりのうえいているおつうしろかおを、不遠慮ぶえんりょでじっとる。
 ――おつうは、はっとおもったが、さきなにかんじないかおつきである。この元旦がんたん五条大橋ごじょうおおはしのそばでおたがいにかけているはずであるが、佐々木小次郎ささきこじろうのほうには、おぼえがなかったであろう。
女子おなご、そこのおばば。おまえたちはいまここへのぼってたのか」
「…………」
 たずかた唐突とうとつなので、おつうもお杉婆すぎばばも、ただ小次郎こじろう派手はで派手はでしいすがたへをみはっていた。
 すると小次郎こじろうは、いきなりおつうかおゆびさして、
「ちょうど、これくらいなとしごろのおんなだ。朱実あけみといって、もちっと丸顔まるがお、がらはこの女子おなごよりつぶだが、茶屋ちゃやそだちの都会娘みやこむすめ、どこかもそっと大人おとなびているふうがある……。かけないか、このあたりで」
「…………」
 だまって、二人ふたりかおると、
「おかしいな? 三年坂さんねんざかあたりで、ものがあるといたのだが、さすれば、このへん御堂おどうかすつもりにちがいないし……」
 はじめは相手あいていていた言葉ことばであったが、途中とちゅうからひとごとのようになって、それ以上いじょういようもなく、なにかまだ、ふたことみことつぶやきながら、小次郎こじろうはどこともなくってしまった。
 ばばは、舌打したうちして、
「なんじゃあの若者わかものは、かたなうているところをれば、あれでもさむらいじゃろが、これよがしの伊達だてすがたして、よるまでおんなのしりをうていくさる。……ええ、こちらはそれどころじゃない」
 おつうは、おつうでまた、
(そうだ、さっき旅籠はたごまよってたあのおんな――あのおんなちがいない)
 武蔵むさしと――朱実あけみと――小次郎こじろうと――そう三人さんにん関係かんけいを、いくらかんがえてもせない想像そうぞうなかにのぼせて、ぼんやり見送みおくっていた。
「……もどろう」
 ばばは、がっかりしたように、あきらめの言葉ことばげてあるした。たしかに地主権現じしゅごんげんいてあったのに、又八またはちないし、たきおとさむさは毛穴けあなをよだたせる。

 すこしみちりてゆくと、本願堂ほんがんどう門前もんぜんで、また、さっきの小次郎こじろう二人ふたり出会であった。
「…………」
 かおあわせただけで、どっちもだまってとおりすぎた。おすぎ振向ふりむいてていると、小次郎こじろうかげ子安堂こやすどうから三年坂さんねんざかのほうへ、まっすぐりてゆく様子ようす――
けわしいづかいをするよのう。……武蔵むさしのようじゃ」
 つぶやいているうちに、ばば視線しせんがなにへれたのか、ぎくと、のまるいからだ衝動しょうどうせて、
「……ほう!」
 ふくろくようなこえした。
 おおきなすぎかげだ。――たれかそのかげって、まねきしている。
 ばばにだけは、やみでもわかる人影ひとかげだった。又八またはちにちがいない。
(――てくれ、こっち)
 ものをいっているのはその意味いみらしい。なにか、はばかることがあるとみえる。おお、いじらしいやつ――というようにばばのひとみはすぐ心持こころもちんだ。
「おつうよ」
 うしろをると、おつう十間じゅっけんほどさきって、ばばっていた。
「――そなた、ひと足先あしさきかっしゃれ。そうかというて、あまりとおくへんでもならぬぞよ、あの塵間塚ちりまづかのそばにっていやい。すぐあとからくほどに」
 おつうが、素直すなおにうなずいてさききかけると、
「これこれ、ほかんだり、そのままどこぞへはしろうとしても、ばばがここからひかっていることをってきゃい。よいか」
 そして、すぐそのからだは、すぎ樹蔭こかげはしっていた。
又八またはちではないか」
「おばばっ」
 くらがりから、ちかねていたようなて、ばばかたくつかんだ。
「なんじゃわれは、そんなところへすくみこんで。……オ、まあ、このは、こおりのようなつめたいをして」
 もうすぐ、そんな些細ささいないたわりごころが、ばば意気地いくじなくうるませてしまう。
 そうしかられても、又八またはち恟々おどおどしたで、
「……でもなおばば、いまも、たったいまもここをとおったろうが」
だれがじゃ?」
太刀たち背中せなかった、のするどい若衆わかしゅだ」
っていやるのか」
らいでか、あいつが佐々木小次郎ささきこじろうといって、つい先頃さきごろ六条ろくじょう松原まつばらで、っぴどいにあわされた」
「――なに、佐々木小次郎ささきこじろう? ……佐々木小次郎ささきこじろうというのは、わがみのことではないのか」
「ど、どうして」
「いつであったか、大坂表おおさかおもてでわがみが、わしにせてくれた中条流ちゅうじょうりゅうゆるがき巻物まきものに、そういてあったじゃろうが。そのとき、わがみは佐々木小次郎ささきこじろうというのは自分じぶん別名べつめいじゃというたではないか」
うそだ、あれはうそなんだ。――その悪戯いたずらがバレてしまい、本物ほんもの佐々木小次郎ささきこじろうにひどいらしめにわされたのだぞ。――じつは、おばばのところへ手紙てがみをたのんでから、約束やくそく場所ばしょ出向でむこうとすると、またもここで彼奴あいつのすがたをかけたので、にとまっては大変たいへんと、あっちこっちにかくまわって、様子ようすをながめていたというわけ。――もう大丈夫だいじょうぶかしら、またやってると面倒めんどうだが」
「…………」
 あきれてものがいえないように、おすぎだまってしまったが、ひところよりはまたやつれて、正直しょうじき自分じぶん無力むりょく小胆しょうたんかおにあらわしている挙動きょどうると、ばばは、よけいにこのいとしくなってならないような様子ようすだった。