179・宮本武蔵「風の巻」「次男坊(7)(8)」


朗読「179風の巻21.mp3」8 MB、長さ: 約 9分 05秒

伝七郎でんしちろうっ……」
 夜具やぐなかからびた片手かたては、おとうとうでくびをつよくにぎった。病人びょうにんちからは、健康けんこうものにもいたかった。
「お……と、と、と、兄貴あにきさけがこぼれる」
 にぎられたさかずきを、伝七郎でんしちろうはあわててちかえながら、
「なんです、あらたまって」
「――おとうと、おまえにのぞどおりこの道場どうじょうゆずろう。だが、道場どうじょうぐことは、同時どうじ家名かめいぐことであるぞ」
「よろしい、ひきけましょう」
「そう無造作むぞうさにいってくれるな――おれのてつをふんで、ふたたび亡父ちちよごすようでは、いまつぶしたほうがいい」
馬鹿ばかなことをっしゃい。伝七郎でんしちろうはあなたとはちがう」
こころれかえてやってくれるか」
ってくれ、さけはやめませんぞ、さけだけは」
「よかろう、さけほどには。……わしがあやまったのは、さけのせいではない」
おんなでしょう。――おんなずきはあなたのいけないところだ。こんどからだなおったら、もうまったつまをおちなさい」
「いや、この機会きかいにわしはすっぱりとけんてた、つまなどとうという気持きもちもない。――ただ一人救ひとりすくってやらなければならない人間にんげんがある。そのもの幸福こうふくになるのを見届みとどけたら、もうのぞみはない。野末のずえかや屋根やねむすんでてるつもりじゃ……」
「はて? すくってやらなければならない人間にんげんとは」
「まあいい。――おまえにはあとたのむぞ。こういう廃人はいじんあにむねにもまだ、幾分いくぶんかの意地いじとか面目めんぼくとかいうものは、武士ぶしであるからには、未練みれんだが、えいぶっている……それをしのんで、おまえにこうをついていう。……いいか、おれのんだてつをまたんでくれるなよ」
「よしっ……きっとあなたの汚名おめいとおからずそそいでみせる。だが、相手あいて武蔵むさしいま何処どこにいるのか、その居処いどころはおわかりですか」
「……武蔵むさし?」
 と清十郎せいじゅうろうは、をみはって意外いがいなことでもいいされたようにおとうとかおつめるのだった。
伝七郎でんしちろう、おまえは、おれがいましめているそばから、あの武蔵むさし立合たちあうつもりか」
「なにをっしゃるのだ、いまさら、いうまでもありますまい。この伝七郎でんしちろうむかえによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者せっしゃ門人もんじんも、武蔵むさし他国たこくあしをふみさないうちにとおもえばこそ即座そくざに、ものりあえず、けつけてたのではございませんか」
おもちがいもはなはだしい!」
 清十郎せいじゅうろうくびった。
 先行さきゆきをているようなまなざしをもって、
「やめろ」
 おとうとめいじるあに態度たいどだった。
 それがらなかったにちがいない、伝七郎でんしちろうは、
「なぜ?」
 とッかかってゆく。
 病人びょうにんかおは、おとうとのその語気ごきからされて、うすあかくなった。
てないからだ!」
 激越げきえつに、こうくと、
「たれに」
 と、伝七郎でんしちろうあおくなっていう。
武蔵むさしに!」
「たれが」
れているではないか。おまえがだ。おまえのうでではだ――」
「ば、ばかなことを」
 わざとおおきくわらうように、伝七郎でんしちろうかたすぶった。そして、あにをふりほどいてさかずき自分じぶんさけをついだ。
「――おい門人もんじんさけがないぞ、さけをもってんか」

 こえいて、弟子でし一人ひとりが、厨房くりやからさけかわりをはこんでゆくと、もうそこの病室びょうしつに、伝七郎でんしちろうはいなかった。
「……おや」
 をみはって、その門人もんじんぼんしたくと、
「どうなさいました若先生わかせんせい
 夜具やぐなかしている清十郎せいじゅうろう様子ようすに、ぎょっとしたようなかおいろをうごかして、枕元まくらもとりすがった。
べ。……んでい。伝七郎でんしちろうにもいちどいうことがある。伝七郎でんしちろうをここへれてい」
「ハ、ハイ」
 弟子でしは、清十郎せいじゅうろう語気ごきが、はっきりしているので、ほっとしたらしく、
「はっ、ただいま
 と、あわてて伝七郎でんしちろうさがしにった。
 伝七郎でんしちろうはすぐつかった。かれ道場どうじょうて、ひさしくなかったわが道場どうじょうゆかすわっていた。
 まわりには、これもひさしぶりで植田良平うえだりょうへいとか、南保なんぽう余一兵衛よいちべいとか、御池みいけ太田黒おおたぐろなどという古参門下こさんもんかかれかこみ、
「お兄上あにうえとは、もうおいになりましたか」
「ム。今会いまあってきた」
「およろこびだったでしょう」
「そううれしそうでもなかった。部屋へやへはいるまでは、おれむねがいっぱいだったが、兄貴あにきかおると、兄貴あにきもむッつりしているし、おれもいいたいことをいったりして、またすぐにいつもの口喧嘩くちけんかだ」
「え、口喧嘩くちげんかを。……それは御舎弟ごしゃていがよくない。お兄上あにうえはきのうあたりから小康しょうこうて、すこし容態ようだいなおしてたばかりのおからだ。そういう病人びょうにんをつかまえて」
「だが……てよ、オイ」
 伝七郎でんしちろう古参門下こさんもんかとは、まるで友達ともだちづきあいの調子ちょうしだった。
 自分じぶんをたしなめかけた植田良平うえだりょうへいかたをつかまえ、冗談じょうだんなかにも自分じぶん腕力わんりょくしめすようにすぶって、
「――兄貴あにきはおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北はいぼくをすすぐために、武蔵むさし立合たちあうつもりだろうが、所詮しょせん、おまえは武蔵むさしてん。おまえがたおれたらもうこの道場どうじょうまでがほろぶ、家名かめいえる。はじはわし一身いっしんのことにして、わしは今度こんどのことかぎり、生涯剣しょうがいけんらないという声明せいめいをして退くから、おまえはわしにかわってこの道場どうじょうささえ、一時いっとき汚名おめいを、将来しょうらい精進しょうじん挽回ばんかいしてくれい……と、こういうのだ」
「なるほど」
「なにがなるほど!」
「…………」
 さがしに門人もんじんが、そのはなしのすきをしおて、
御舎弟様ごしゃていさま、お兄上あにうえが、もいちど枕元まくらもとてくれとっしゃっておりますが」
 うしろにをつくと伝七郎でんしちろうはじろッと、その門人もんじんかおて、
「――さけはどうした」
「あちらにはこんでおきました」
「ここへってい、みなみながらはなそう」
若先生わかせんせいが」
「うるさい。……兄貴あにきはすこし恐怖症きょうふしょうにとッかれているらしい。さけをこっちへってい」
 植田うえだ御池みいけ、そのほかくちをそろえて、
「いやいやさけどころの場合ばあいではない、吾々われわれなら結構けっこうですぞ」
 伝七郎でんしちろうは、不機嫌ふきげんに、
「なんだ貴様きさまたちは。……貴様きさまたちまで一人ひとり武蔵むさしおびえているのか」