178・宮本武蔵「風の巻」「次男坊(5)(6)」


朗読「178風の巻20.mp3」9 MB、長さ: 約 10分 05秒

 この数日すうじつがあぶない――と医者いしゃがいってから四日目よっかめになる。そのころ最悪さいあく容態ようだいだった。きのうあたりからはやや気分きぶんがよいらしくえる。
 その清十郎せいじゅうろうは、いまぽやっとひとみをひらいて、
あさか? よるか?)
 とかんがえてみた。
 枕元まくらもと有明行燈ありあけあんどんえなんとしていた。ひとはいなかった。つぎだれやらの鼾声いびききこえる。看護かんごづかれの人々ひとびとが、おびかずにごろしていた。
にわとりいている)
 まだこのきているかとあらためておもう。
はじ!)
 清十郎せいじゅうろうは、夜具やぐえりで、かおをおおった。
 いているようにゆびはし痙攣けいれんしている。
(このさき、どのつらげて)
 こうおもうのであろう、男泣おとこなきにしゅくっと、嗚咽おえつをのむ。
 ちち拳法けんぽうは、あまりに世間せけんおおぎていた。不肖ふしょうは、ちち名声めいせい遺産いさんになってあるくだけでせいいっぱいであったのみか、到頭とうとう、それあるがために、をもいえをも、ここへやぶってしまった。
おわりだ、もう吉岡よしおかいえも)
 ぼーっとひとりでに枕元まくらもと有明ありあけ行燈あんどんえる。部屋へやなかに、夜明よあけのひかりがほのじろうつった。朝霜あさしもしろ蓮台寺野れんだいじのったときのことがまたおもされる――
 あのときの、武蔵むさしのまなざし!
 いまおもっても、毛穴けあながよだつ。所詮しょせんはじめから自分じぶんかれてきではなかったのだ。なぜ、かれまえ木剣ぼっけんげて、この家名かめいだけでも工夫くふう未然みぜんにしなかったか?
おもがっていたのだ。ちち名声めいせいがそのまま自分じぶん名声めいせいであるかのように。――かんがえてみれば、おれは吉岡拳法よしおかけんぽううまれた以外いがい、なんの修行しゅぎょうらしいことをしてたか。おれは、武蔵むさしけんやぶれるまえに、一家いっか戸主こしゅとして、人間にんげんとして、すでに敗北はいぼくきざしをっていた。武蔵むさしとの試合しあいは、その壊滅かいめつ最後さいご拍車はくしゃをかけただけにぎない――おそかれはやかれ、このままでこの吉岡道場よしおかどうじょうだけが、いつまで社会しゃかい激流げきりゅうそと繁栄はんえいをゆるされているはずはない)
 じている睫毛まつげうえなみだしろたまる。――ぽろりと、それがみみわきへながれるとかれこころれて、
(なぜおれは蓮台寺野れんだいじのななかったか。……きたところで――)
 と、右腕みぎうでのない傷口きずぐちいたみにまゆをふさぎ、悶々もんもんと、よるけるのをおそろしくおもった。
 ど、ど、どっ――ともん打叩うちたた物音ものおとがその時遠ときとおきこえた。だれやらがつぎ人々ひとびとおこしにる。
「えっ、御舎弟ごしゃていが」
いま、おきか」
 あわただしく出迎でむかえにってものと、すぐ清十郎せいじゅうろう枕元まくらもとってものとがあって、
若先生わかせんせい若先生わかせんせい、およろこびください。ただいま伝七郎様でんしちろうさま早駕はやかごでおきになったそうでございます。すぐこれへえられましょう」
 雨戸あまどけ、火鉢ひばちすみをつぎ、敷物しきものをおいてもなく――
「ここか、兄貴あにき部屋へやは」
 伝七郎でんしちろうこえふすまそときこえる。ひさしぶりな!
 とおもいながら、清十郎せいじゅうろうは、そのおとうとたいしてすら、いまの姿すがたられるのがつらがした。
兄上あにうえ
 はいっておとうとへ、清十郎せいじゅうろうよわいひとみをげて、わらおうとしたがわらえなかった。
 ぷーん、おとうとからだからさけかおりがにおう。

「どうなすった兄上あにうえ
 伝七郎でんしちろうあまりに元気げんき様子ようすは、病人びょうにん神経しんけい重圧じゅうあつをおぼえるらしい。
「…………」
 清十郎せいじゅうろうは、をふさいで、しばらくなにもいわなかった。
兄上あにうえ、こんなときにはやはり、不肖ふしょうおとうとでも、たのみになるでしょう。委細いさい使つかいのものからくと、ものりあえず、御影みかげって、途中大坂とちゅうおおさか傾城町けいせいまち旅支度たびじたくさけをととのえ、よるおかして、けつけてまいったのですぞ。――ご安心あんしんなさるがいい、伝七郎でんしちろうがまいったからには、もうこの吉岡道場よしおかどうじょうに、だれようと、一指いっしもささせませぬ」
 そして、ちゃれて門人もんじんむかい、
「おいおい、ちゃはいい。ちゃはいいから、さけ支度したくしてくれ」
「はい」
 退がるとまた、
「おいっ、だれて、この障子しょうじめろ、病人びょうにんさむいじゃないか、馬鹿ばか
 ひざを、あぐらにくずして、火桶ひおけをかかえみ、だまっているあにかおのぞんで、
「いったい、勝負しょうぶはどんな立合たちあかたをやったんです。宮本武蔵みやもとむさしなどというものは、近頃ちかごろちょっときこしたおとこではありませんか、兄貴あにきとしたことが、そんな駈出かけだしの青二才あおにさい不覚ふかくをとるなんて……」
 門人もんじんが、ふすまのさかいから、
御舎弟ごしゃていさま」
「なんだ」
「おさけ支度したくができました」
ってい」
「あちらへ用意よういしてございますゆえ、おふろにでもおはいりになって」
になんかはいりたくもない。さけはここでのむから、ここへってい」
「え、お枕元まくらもとで」
「いいさ、兄貴あにきとはひさしぶりではなすのだ。ながあいだなかわるかったが、こういうときには、やはり兄弟きょうだいくものはないよ。ここでもう」
 やがて、手酌てじゃくで、
「うまい――」
 と、さんこんつづけ、
丈夫じょうぶだと、兄上あにうえにも、ひさしぶりで一杯いっぱいさすのだが」
 などとひとがたりにいう。
 清十郎せいじゅうろうは、上眼うわめづかいに、
おとうと
「ウム」
枕元まくらもとで、さけはよしてくれ」
「なぜ」
「いろいろいやなことがおもされて、おれは不愉快ふゆかいだから」
いやなこととは」
父上ちちうえが、さだめし、兄弟きょうだいさけには、まゆをひそめておいでになろう。――おまえもさけうえから、おれもさけうえから、ひとつもいいことはしていない」
「じゃあ、わるいことをしてたというのか」
「……おまえにはまだきもにこたえまい。しかし、わしはいま心魂しんこんてっして、半生はんせい苦杯くはいをなめあじわっているのだ……この病褥びょうじょくなかで」
「ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも兄者人あにじゃひとせんがほそくて、神経質しんけいしつで、いわゆる剣人けんじんらしいせんふとさがない。ほんとをいえば、武蔵むさしなどとも、試合しあいをするというのが間違まちがっている。相手あいてがどうあろうと、そんなことはあなたのにないことなのだ。もうこれにりて、あなたは太刀たちたないがいい、そしてただ吉岡二代目様よしおかにだいめさまおさまっているんだな。――どうしても試合しあいいど猛者もさがあって退きならなくなった場合ばあいは、伝七郎でんしちろう立合たちあってあげる。道場どうじょうもこのさきは、伝七郎でんしちろうにおまかせなさい、きっと、おやじの時代じだいよりは、数倍すうばい繁昌はんじょうさせてみせる。――おれの道場どうじょう野心やしんだなどと、あなたさえうたがわなければ、拙者せっしゃは、きっとやってみせるが」
 銚子ちょうしそこから、もうなくなったさけのしずくをさかずきっていう。
「……おとうと!」
 清十郎せいじゅうろうは、ふいにおこしかけたが、片手かたてのないために、夜具やぐ自由じゆうねられなかった。