175・宮本武蔵「風の巻」「二人小次郎(9)(10)(11)」


朗読「175風の巻17.mp3」15 MB、長さ: 約 16分 08秒

て! 源八げんぱち
 と、だれかそのときいった。
 それが、又八またはちくちからこえであるならば、自分じぶん無法むほうわかっている感情かんじょうみころしても、目的もくてきのためには、
なにをっ)
 といったようなかおつきであったが――
「や……?」
 くらそらげて、みみのせいかとでもうたがっているように、こずえにうごくかぜいていた。
 すると、そこのちゅううえからまた二度目にどめこえがした。
「つまらない殺生せっしょうをするなよ、源八げんぱちっ――」
「あっ、だれだ?」
小次郎こじろうだ」
「なに」
 またしても小次郎こじろうだという人間にんげん今度こんどそらからりてそうなのだ。天狗てんぐこえにしてはしたしみがありぎた。いったい幾人いくにんにせ小次郎こじろうがいるのだろうか。
 源八げんぱちは、
(もうそのわない)
 というように、したからはなれると、脇差わきざしさきを、ちゅうかまえて、
「ただ小次郎こじろうとだけではわからぬ。どこのなに小次郎こじろうか」
岸柳がんりゅう――佐々木小次郎ささきこじろうさ」
「ばかなっ」
 わらばして、
「その偽物にせものはもう流行はやらぬぞ。いまもここで一人ひとりているのがわからぬか。……ははあ、さてはめた、おのれもここにいる又八またはちとやらの同類どうるいか」
「わしは真物ほんものだ。――源八げんぱち、わしはそこへりようとおもうのだが、おまえは、りてたらわしを真二まっぷたつにろうとしているな」
「ウム、小次郎こじろうもの幾人いくたりでもりてい。成敗せいばいしてみせる」
れたら、偽小次郎にせこじろうだろう、だが真物ほんもの小次郎こじろうは、れッこない。――りるぞ、源八げんぱち
「…………」
「いいか、おまえのあたまうえぶぞ、見事みごとに、れよ。――だが、わしを宙斬ちゅうきりにしそこねると、わしのにある物干竿ものほしざおが、おまえの直身すぐみを、たけのようにってしまうかもれないぞ」
「アッしばらく――。小次郎様こじろうさま、しばらくおちください。……そのおこえおもしました。また、物干竿ものほしざお銘刀めいとうをご所持しょじのうえは、まこと佐々木小次郎様ささきこじろうさまちがいありません」
しんじたか」
「けれど――どうして左様さようなところへは?」
あとはなそう」
 ――はっと源八げんぱちくびをすくめたのであった。仰向あおむいているかおえて、小次郎こじろうはかまかぜが、さっと、松葉まつば一緒いっしょに、自分じぶんのすぐうしろへちてた。
 まぎれもない佐々木小次郎ささきこじろうまえ見直みなおすと、源八げんぱちは、かえって、不審ふしんもやにつつまれてしまった。このひと自分じぶん主人しゅじん草薙くさなぎ天鬼てんきとは同門どうもんあいだがらである。したがって、小次郎こじろうがまだ上州じょうしゅう鐘巻自斎かねまきじさいもとにいた時分じぶんは、幾度いくどったことがある。
 だがそのころの小次郎こじろうは、こんな美々びびしい若衆わかしゅではなかった。目鼻めはなだちは幼少ようしょうからきかない気性きしょうをあらわして、凜々りんりんとしていたが、師匠ししょう自斎じさいが、華美かびきらひとであったから、そこの水汲みずく小僧こぞうであった小次郎こじろうは、もとより質素しっそいろくろ田舎いなか少年しょうねんでしかなかった。
見違みちがえるような――)
 源八げんぱち見惚みとれていた。
 こしろして、
「ま、そこへかけないか」
 と小次郎こじろうはいう。
 それから――二人ふたりあいだわされたはなしによって――師匠ししょうおいであり、また同門どうもんである草薙天鬼くさなぎてんきが、自分じぶんわた中条流ちゅうじょうりゅう印可いんか巻物まきものって遊歴中ゆうれきちゅうに、伏見城ふしみじょう工事場こうじばで、大坂方おおさかがた間諜かんちょうとまちがえられて惨死ざんしした事情じじょうもおたがいによくわかってくる。
 また、その事件じけんが、世間せけんなかに、佐々木小次郎ささきこじろう二人ふたりこしらえてしまったわけもわかってて、ては、をたたいて、真物ほんもの小次郎こじろうはそれを愉快ゆかいがった。

 そこでまた、小次郎こじろうがいうには――他人たにんなどかたってあるくような、こういう生活力せいかつりょくよわ人間にんげんなどをころしてみても、いっこう面白おもしろくもなんともない。
 らすならば、もっとべつな方法ほうほうがある。また草薙家くさなぎけ遺族いぞくや、国許くにもと世間せけんていの問題もんだいならば、なにもむりに敵討かたきうちこしらえて、事情じじょうつくろわなくても、そのうち自分じぶん上州方面じょうしゅうほうめんくだったおり十分死者じゅうぶんししゃ面目めんぼくつように釈明しゃくめいして、追善ついぜん供養くようでもいとなむことにするから、それも自分じぶんにまかしておいたがいいではないか。
「――どうだな、源八げんぱち
 小次郎こじろうのことばに、
「そうっしゃってくださるからには、わたしにはなにも異存いぞんはございません」
「――では、わしはこれでわかれるぞ、おまえもくにかえれ」
「え、このまま」
「されば、じつはこれから、朱実あけみという女子おなごげたさきをさがしにく。――ちとくから」
「ア、おちください。まだ、大事だいじなものをおわすれでございましょう」
「なにを」
先師せんし鐘巻自斎様かねまきじさいさまから、おい天鬼様てんきさまたくして、あなたへおゆずりなされた中条流ちゅうじょうりゅう印可いんかまき
「ウム、あれか」
んだ天鬼様てんきさま懐中ふところからって、この偽小次郎にせこじろう又八またはちもうものが、いま肌身はだみにつけて所持しょじしておるといいました。――それは当然とうぜん自斎先生じさいせんせいから、あなたへさずけられたもの。……おもえばこうしておもうしたのも、自斎先生じさいせんせいれいや、天鬼様てんきさまのおひきあわせであったかもれません。どうかそれをこのにおいて、お受取うけとりくださいまし」
 源八げんぱちは、そういって、又八またはち懐中ふところんだ。
 どうやら生命いのちたすかりそうな様子ようすなので、又八またはちは、腹巻はらまきそこからそれを引出ひきだされても、しいもちなどはすこしもしなかった。むしろ、そのあと懐中ふところ軽々かるがるした。
「これです」
 源八げんぱちが、印可いんか巻物まきものを、ひとかわって小次郎こじろうさずけると、小次郎こじろうは、しいただいて感泣かんりゅうするかとおもいのほか、
「――らない」
 と、さない。
 意外いがいかおして、源八げんぱちは、
「え? ……どうして」
らん」
「なぜですか」
「なぜでも、わしにはもうそんなものは、不要ふようだとおもうから」
勿体もったいないことをっしゃる。自斎先生じさいせんせいは、おおくのお弟子でしのうちから、中条流ちゅうじょうりゅう印可いんかさずけるものは、あなたか、伊藤一刀斎いとういっとうさいか、こう二人ふたりよりないとて、生前せいぜんからこころゆるしておいでになったのですぞ。――やがて、いまわのきわに、この一巻いっかんを、おい天鬼様てんきさまにあずけて、あなたへわたせとっしゃったのは、伊藤一刀斎いとういっとうさいは、すでに独自どくじ一派いっぱてて、一刀流いっとうりゅうしょうしておりますゆえ、おとうと弟子でしではあるが、あなたに印可目録いんかもくろくをおゆるしになったものだろうとかんがえられます。……師恩しおん有難ありがたさ、おわかりになりませんか」
師恩しおん師恩しおん、しかし、わしにはわしの抱負ほうふがあるのだ」
「なんですッて」
誤解ごかいするな、源八げんぱち
あまりといえば、たいして、無礼ぶれいでございましょう」
「そんなことはない。ありようにいえば、わしは自斎先生じさいせんせいよりも、もっとひいでた天稟てんぴんってうまれているとおもっている。だから、先生せんせいよりもえらくなるつもりなのだ。あんな片田舎かたいなか晩年ばんねんうずもれてしまうような剣士けんしおわりたくないのだ」
本性ほんしょうっしゃるのか」
「――勿論もちろん
 と、自分じぶん抱負ほうふをいうのになんの遠慮えんりょがあろうという態度たいど小次郎こじろうであった。
「せっかく、先生せんせいはわしへ印可いんかくだすったが、今日こんにちにおいてすら、この小次郎こじろううではもう先生以上せんせいいじょうのものになっていると、わしはみずかしんじているのだ。それに中条流ちゅうじょうりゅうという流名りゅうめい田舎いなかびて、将来しょうらいあるわかものには、かえってさまたげになる。兄弟子あにでし弥五郎やごろうが、一刀流いっとうりゅうてたのだから、わしも一流いちりゅうてて、すえは、巌流がんりゅうとなえるつもりだ。……源八げんぱち、そういうわしの抱負ほうふだから、そんなものは、この不要ふようだ。国許くにもとってかえって、おてら過去帳かこちょうとでも一緒いっしょにしまっておくがいい」

十一

 謙譲けんじょうなどというものは、ほどもない言葉ことばつきなのである。なんというおもがった――高慢こうまんおとこだろうか。
 源八げんぱちは、にくで、小次郎こじろうのうすいくちびるを、じっとねめつけていた。
「――だがのう源八げんぱち草薙家くさなぎけ遺族いぞくたちへは、よろしくいってください。いずれ、東国とうごくくだったおりには、おたずねするがと」
 おわりのことばは、こうていねいにいって、小次郎こじろうは、にやりとわらう。
 高慢こうまんもの意識いしきしていうていねいめいた言葉ことばほど、嫌味いやみ小憎こにくいものはない。源八げんぱちはむかむかして、亡師ぼうしたいするその不遜ふそん詰問なじってやろうとおもったが、
(ばかげている!)
 自嘲じちょうして――さっさとおいずるのそばへゆき、印可いんかまきをそのおいうちおさめると、
「おさらば」
 一言捨ひとことすてて、たったと彼方あなたってしまった。
 後見送あとみおくって――
「ハハハハ、おこってきおったわい。田舎者いなかものめ」
 それから今度こんどは、みき悄然しょうぜんとしている又八またはちむかい、
偽者にせもの
「…………」
「これっ偽者にせもの返辞へんじをせぬか」
「はい」
「おぬし、なんという」
本位田ほんいでん又八またはち
牢人ろうにんか」
「はあ……」
意気地いくじのないやつだ、師匠ししょうからくれた印可いんかさえかえしてやったわしを見習みならえ。それくらいな気概きがいがなくては、一流一派いちりゅういっぱにはなれんとおもうからだ。……それをなんだ、他人たにんをかたり、他人たにん印可いんかぬすんで、世間せけんわたりあるくとは、さもしいにもほどがある。とらかわをかぶってもねこねこでしかないぞ。あげくのては、こういううのがオチだ。すこしはにしみたか」
以後気いごきをつけます」
「いのちだけはたすけてやる。しかし向後こうごのこともあるから、その縄目なわめは、ひとりでにけるときまでそうしておく」
 いいわたすと小次郎こじろうは、何思なにおもったか、小柄こづかでそこのかわけずりだした。又八またはちあたまうえに、けずられたまつかわちて、えりなかまではいった。
「ア。矢立やたてたなかった」
 小次郎こじろうがつぶやくと、
矢立やたてがお入用いりようなら、てまえのこしにたしかしてあったとおもいますが」
 と、又八またはちびていう。
「そうか、おぬしがわせておるか、じゃありるぞ」
 ふでげて、小次郎こじろうかえしていた。
 巌流がんりゅう――これはふといまおもいついたである。従来じゅうらいは、きしやなぎ岩国いわくに錦帯橋きんたいばしで、燕斬つばめぎりの修練しゅうれんをしたおもを、剣号けんごうにしていたのであるが、それを流名りゅうめいとすれば――巌流がんりゅう――このほうがいかにもふさわしい。
「そうだ、これから流儀りゅうぎは、巌流がんりゅうおう、一刀斎いっとうさい一刀流いっとうりゅうなどより、はるかにいい」
 けたころである。
 紙一枚かみいちまいほどけずったしろはだへ、小次郎こじろうは、矢立やたてふでってこういた。

このもの、それがしのせいをかたり、それがしの剣名けんめい偽称ぎしょうし、諸国しょこくよからぬことしてあるきたれば、とらえて、面貌めんぼうしゅうしめすものなり
わがせい、わがりゅう天下てんかなし

   巌流がんりゅう 佐々木小次郎ささきこじろう
「よし」
 すみのようなまつかぜが、松林まつばやしなかを、ぐわっとうしおみたいにってった。小次郎こじろう鋭敏えいびんわかさはあたまなかですぐ活動かつどう目標もくひょう変化へんかる。いま、そんな抱負ほうふえていたかとおもうと、もうくらまつかぜへ、ひょうのようなひからせ、
「ヤ?」
 朱実あけみかげでもつけたのか、突然とつぜんまっしぐらにどこかへった。