172・宮本武蔵「風の巻」「二人小次郎(3)(4)」


朗読「172風の巻14.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 46秒

 おんなは、おとこ指図さしずする。おんな意識いしきすると、おとこにもない金力きんりょくしたり、英雄えいゆうぶってせたりしたがる。先刻さっきだれていないとおもって、あし真似まねをしてじたあの心理しんり延長えんちょうが、まだ又八またはちこころめていた。
 だから朱実あけみが、いくらうえからかれむかって、
ひどうといけない)
 とおしえても、
(はやく、かくれておしまいなさい!)
 と危険きけん予報よほうしても、そういわれればいわれるほど、かれ自分じぶんおとこであることをってしまって、
(それは大変たいへん
 と、きゅうにあわてふためいて、そこらのくらがりへおしりしてくぐりこむような醜状しゅうじょうを、いくら愛人あいじんでないからといって、そうたやすく彼女かのじょしたせることは出来できなかった。
「――あっ? だれだっ」
 こういったのは、もうそこへはや跫音あしおとはずませておとこでもあったし、また、それにおどろいて退いた又八またはち異口同音いくどうおんこえでもあった。
 朱実あけみ心配しんぱいしていたこわおとこなるものが、ついに、ここへてしまったのである。又八またはちげていた抜刀ぬきみには、いぬれていた。それをたので、ここへおとこは、又八またはちまえった途端とたんから、又八またはちをただものでないようににらまえて、
「――だれだっ、なんじは」
 と、もう一声ひとこえあたまからびせてかかった。
「…………」
 朱実あけみこわがりかたおおげさであったので、又八またはち一応いちおうとしたが、相手あいてかげをよく見直みなおすと、こそたかくてたくましそうな骨格こっかくであるが、年齢とし自分じぶん大差たいさのないわかさだし、かみ前髪まえがみい、着物きもの派手はで若衆小袖わかしゅこそでていて――
(なんだ、こんな青二才あおにさいが)
 と、一見いっけんしておもわせる程度ていど柔弱にゅうじゃく扮装いでたちなのである。
 そこで又八またはちは、ふふんと、はなさき安心あんしんしたものなのだ。こんな相手あいてならいくらでもお相手申あいてもうしてさしつかえない。夕方ゆうがたぶつかった六部ろくぶのような人間にんげんでは不気味ぶきみだが、もう二十歳はたちえながら、前髪まえがみ若衆小袖わかしゅこそででぺらぺらしているような柔弱者にゅうじゃくものに、よもけをろうとはおもわれない。
(こいつが、朱実あけみくるしめているのか。生意気なまいきあおびょうたんが。どういうわけかまだいていないが、いずれ、朱実あけみまわして、ひどいわせているのだろう。――よし、らしてやろう)
 こう又八またはちむねのうちで、余裕よゆうのあるところをしめして沈黙ちんもくしていると、前髪まえがみ若衆武士わかしゅぶし三度みたびくちをひらいて、
何者なにものだっ? ……なんじは」
 と、いった。
 すがたにあわない猛々たけだけしいこえであって、三度目さんどめいっかつことさらあたりのやみはらうように颯爽さっそうとしていたが、すでに相手あいてのかっこうであたまからてきんでいた又八またはちは、
「おれか、おれは人間にんげんだ」
 と、こう揶揄からか半分はんぶんて、わら必要ひつようもないこのさいに、いて、にんやりとかおゆがめてせたものである。
 たせるかな、前髪まえがみは、くわっとかおへのぼせたらしい。
もないのか。――もない人間にんげんだと卑下ひげするのか」
 激越げきえつっかかってるのを、又八またはちは、綽々しゃくしゃくとして、
「てめえのような、氏素姓うじすじょうれねえやつわれて名乗なのはない」
 と、やりかえす。
「だまれっ」
 若衆わかしゅ背中せなかには、中身なかみだけでも三尺さんじゃくもあろうかとおもわれる大刀だいとうななめにっていた。
 肩越かたごしにのぞいているそのつかがしらとともに前髪まえがみはずっとまえをかがめて、
「そちとわしとのあらそいはあとめよう。わしは、このうえにかくれているおんなろし、このさき数珠屋ずずや宿やどまでもどるから、それまでっておれ」
「ばかをいえ、そうはさせねえ」
「なんじゃと」
「このむすめは、おれが以前女房いぜんにょうぼうにしていたおんなむすめいまでこそえんはうすいが、難儀なんぎすててはとおれない。おれをさしいて、ゆびでもさしてみろ、たたっるぞ」

 先刻さっきいぬれではないが、威嚇いかくしたらすぐをたれてげるだろうとおもいのほか――
「おもしろい」
 と、相手あいて前髪男まえがみおとこは、又八またはち予期よきとはちがって、ひどく好戦的こうせんてき物腰ものごしとなり、
うけるところなんじ武士さむらいはしくれらしい。ひさしくそういうほねっぽい人間にんげん出会であわないので、背中せなか物干竿ものほしざお夜泣よなきをしていたおりでもある。この伝家でんか宝刀ほうとうも、自分じぶんわたってからまだかせたことがないし、すこしさびているから、なんじほねいでやろう。――だが、げるなよ、いざとなって」
 退くに退けないようにして、相手あいて要心ようじんぶかく、言葉ことばさきしばってくるのだった。しかし、そのせられてはなどという先見せんけんたない又八またはちなのである。まだ十分じゅうぶんさきをあまくて、
広言こうげんはよせ、かんがなおすならいまのうちだぞ、あしもとのあかるいうちにせてしまえ、生命いのちだけはたすけてやる」
「その言葉ことばは、そのまま、そちへ返上へんじょうしよう。――ところで、そこな人間殿にんげんどの先程黙さきほどだまっていておれば、わしなどへ名乗なのってかすようなでないと、だいぶ勿体もったいぶってござったが、そのご尊名そんめいをひとつうかがっておこうではないか。それが勝負しょうぶ作法さほうでもあるし」
「おお、かせてもいいが、いておどろくな」
おどろかないように、きもをすえておたずねしよう。――してまず、けんのお流儀りゅうぎは」
 そんなことを喋々ちょうちょうする人間にんげんにかぎってつよかったためしがない。又八またはちは、いよいよ、こう見縊みくびったり、って、
富田とだ入道勢源にゅうどうせいげんのわかれをんで、中条流ちゅうじょうりゅう印可いんかをうけている」
「え、中条流ちゅうじょうりゅうを?」
 小次郎こじろうは、すこおどろはじめた。
 ここで、圧倒的あっとうてきなければうそだとおもったように、又八またはちしかぶせて、
「ではこんどは、そっちの流儀りゅうぎかせてもらおうじゃねえか。勝負しょうぶ作法さほうというもの」
 口真似くちまねして、やりかえしたつもりでいると、小次郎こじろうは、
「あいや、わしの流儀姓名りゅうぎせいめいあとからもうげる。してしてそこもと中条流ちゅうじょうりゅうは、いったい、だれとしてまなばれたか」
 うもおろかというように、又八またはちこたえは言下げんかて、
鐘巻自斎かねまきじさい先生せんせい
「ホ? ……」
 いよいよ、小次郎こじろうおどろいて、
「すると、伊藤一刀斎いとういっとうさいは、ごぞんじか」
っているとも」
 又八またはち面白おもしろくなってた。これはもうれいあらわれてきた証拠しょうこたのである。刃物沙汰はものざたおよばないで、おそらくこの前髪まえがみは、なんとか妥協だきょう緒口いとぐちつけてくるにちがいないとかんがえていた。
 そこで、かれは、すすんでいった。
「あの伊藤弥五郎一刀斎いとうやごろういっとうさいなら、なにをかくそう、おれにはあに弟子でしにあたるひとだ。つまり、自斎先生じさいせんせいのところで同門どうもんあいだがらだが、それが、どうしたっていうんだ」
「――では、かさねてうかがいたいが、そういうあなたは」
佐々木小次郎ささきこじろう
「え?」
佐々木小次郎ささきこじろうというものだ」
 ていねいにも、二度にどまでいったものである。
 ここにいたっては、小次郎こじろうも、おどろきをえて、唖然あぜんとしてしまうほかはなかった。