171・宮本武蔵「風の巻」「二人小次郎(1)(2)」


朗読「171風の巻13.mp3」10 MB、長さ: 約 11分 04秒

二人小次郎ふたりこじろう

 さもしいかれは、つい、そこらのいえのぞいてみた。どこのいえも、ひどく貧乏びんぼうだった。
 けれどそこには、ひとなべむかっている夫婦ふうふがある。老母ろうぼかこんで夜業よなべ手内職てないしょくをしている兄妹はらからがある。物質ぶっしつには極端きょくたんにめぐまれていないかわりに、秀吉ひでよし家康いえやす家庭かていにはないものをおたがいがっているらしい。それは、まずしいものほど骨肉愛こつにくあいだった。そのいたわりいがあるばかりに、この細民さいみんくつは、餓鬼がきにならなかった。やはり人間にんげんのあたたかさをっている。
「おれにも、老母ははがあった。――どうしたろう、おふくろは」
 きゅうに、又八またはちは、おもされた。
 つい去年きょねんくれって七日なのかほど一緒いっしょにいただけで、すぐ、つまらない母子おやこ同士どうしのわがままから、途中とちゅうててわかれてしまったりになっている。
「――わるいなあ、かわいそうなおふくろだもの……。どんなにきなおんなをこしらえてみても、おふくろほど、こころからおれをあいしてくれるおんなはなかった」
 ここから道程みちのりももうたくさんはない。又八またはち清水きよみず観音堂かんのんどうってみようとかんがした。あそこのひさししたならることもできる。また――ことによったら老母はは出会であうかもれないというそらだのみもいてみる。
 老母ははのおすぎは、だい信心家しんじんかである。神仏しんぶつわず、そういうもののちから絶対ぜったいしんじているひとだ。いやしんじるのみでなくなによりのたのみとしているところがある。いつか大坂おおさか七日なのかあまり又八またはち一緒いっしょになってあるいているあいだに、母子おやこあいだにすぐ不和ふわができたのも、おすぎ神社仏閣じんじゃぶっかくばかりあるいてひまどっているのが又八またはち退屈たいくつおこさせて、とても、このおふくろとながたびはできないという倦怠けんたいを、息子むすこたせたのが一因いちいんになっている。
 そのころ又八またはちは、よくおすぎからかされていたのである。
(なにがあらたかじゃというて、清水寺きよみずでら観世音かんぜおんさまほど、あきらかなほとけはない。あそこへ、祈願きがんをこめて、やがて三七日さんしちにちちかころ、なんと、武蔵むさしめに、ちゃんとわせてくだされたではないか。しかも御堂おどうまえで、あのやつに。――おぬしも清水きよみず観音様かんのんさまだけは、よう信心しんじんしたがよいぞ)
 ――それからまた、はるにでもなったら、お礼詣れいまいりをかね、後々のちのちも、本位田ほんいでんのため御加護ごかご祈請きせいするのだと、幾度いくども、又八またはちかされていた。
 だから、あるいはもう、そこに老母はは参籠さんろうしているかもれない――と又八またはちかんがえたのである。するとあながちかれかんがかたも、そらだのみでないかもれなかった。
 六条坊門ろくじょうぼうもんとおりから五条ごじょうのほうへあるいてゆくと、まちではあるが、この界隈かいわいよるというものは、いぬにつまずきそうなくらさであった。――その野良犬のらいぬがまたじつおおい。
 かれは、先刻さっきから、その野良犬のらいぬこえに、かれていた。いしげたくらいで沈黙ちんもくするれではなかった。しかし、かれという人間にんげんも、えられることにはこの頃馴ごろなれているので、いくらいぬきばをむいていてても、えるほうで張合はりあいのなくなるほど平気へいきあるきつづけていた。
 ――だが、五条ごじょうちか松原まつばらあたりまでると、いぬれは、突然とつぜんえる方向ほうこうをかえて、又八またはち前後ぜんごきまとっていたいぬまで、わらわらと跳躍ちょうやくして、ほかの群犬むれいぬ一緒いっしょになり、並木なみきのうちの一本いっぽんまつきながら、喧々けんけんと、そらむかって咆哮ほうこうしだした。
 暗闇くらやみなかにうようよしているいぬかげは、いぬというよりはおおかみちかい。それがかぞえきれないかずだった。なかには、つめてて、そのまつ六尺上ろくしゃくうえまでびかかってきばをむいているこわいぬもある。
「……おや?」
 又八またはちは、うえあおいで、をみはった。こずえうえには、チラと人影ひとかげがある。星明ほしあかりをかしてみると、おんならしい美麗きれいたもとしろかおが、こまやかなまつなかにおののいているのである。

 いぬわれてうえのぼったのか、それとも、うえにかくれていたために、野良犬のらいぬあやしんでそのしたいたものか、そこのところは明瞭めいりょうではないが、どっちにしても、こずえおののいているかげは、年若としわかおんなであることに間違まちがいない。
「――ッ! 畜生ちくしょうッ。――しついッ」
 又八またはちは、いぬれへ、こぶしりあげてみせた。
「こん畜生ちくしょう
 ふたみっいしげた。
 あしのまねをしてうなれば、どんないぬげるとかねがねいていたので、又八またはちは、けもののようにいになって、
「ウウー」
 とうなってみたが、ここのいぬたちには、なんのあらわれない。
 もっとも、相手あいて三疋さんびき四疋よんひきではないのだ、まるで深淵しんえんれている魚紋ぎょもんのような無数むすうかげが、り、きばいて、かわはだかになるほど、おののいているそらおんなむかって、たけっているのである。又八またはちのごときが、とおくからあし真似まねをしてせたところで、この猛犬もうけんれには問題もんだいにされないわけだった。
「こいつら!」
 憤然ふんぜん又八またはちった。
 かりにも、両刀りょうとうをおびている青年せいねんが、あし真似まねをしているのを、うえから、わかおんなられていた恥辱ちじょく突然気とつぜんきづいたからである。
 キャッーンと、ただならぬ一疋いっぴき悲鳴ひめいおこると、すべてのいぬが、又八またはちほうけた。そしてかれにある白刃しらはと、そのしたたおされた友達ともだち死骸しがいると、いぬは、どっとひとところへかたまってせたぼねをなみのようにみなとがらせた。
「これでもか」
 かたなりかぶっていぬなかけこむと、かれかおへぱっとすなをくれて、いぬ八方はっぽうやみへちらかった。
「――おんなッ、おいッ、りてい! りてい!」
 そらむかってぶと、まつこずえのあいだで、り、り、り、りん……と金属製きんぞくせいれた。
「おや、朱実あけみじゃないか。――おいッ」
 たもとすずおぼえがあった。すずおびたもとにつけている女子おなごは、なにも朱実あけみだけにかぎったこともないが、ほのかにしろえるかお輪郭りんかくも、なんだかているがしたのである。
 ――とやはり朱実あけみこえだった。非常ひじょうおどろいた様子ようすで、
だれ? ……だれ? ……」
又八またはちだ、わからないか」
「えっ、又八またはちさんですって」
「なにしているんだ、そんなところで。――いぬなぞこわがるおまえでもないくせに」
いぬこわいのでかくれているわけじゃありません」
りてたらどうだ、とにかく」
「でも……」
 朱実あけみは、うえから、しずかなよる彼方此方あちこちまわして、
「――又八またはちさん、そこを退いていてください。あのひとが、さがしにたようですから」
「あのひと? だれだ、そいつは」
「そんなこと、いまはなしてはいられません。とてもおそろしいひとです。わたしは去年きょねんくれから、そのおとこを、親切しんせつひとだと最初さいしょおもって、世話せわになっているうちに、だんだんわたしむご真似まねをするんです。……それで今夜こんやすきて、六条ろくじょう数珠屋ずずや二階にかいからしてたところ、すぐかんづいて、あとからってたらしいんです」
「おこうのことじゃないのか」
「お養母っかさんなどじゃありません」
祇園ぎおん藤次とうじでもないのか」
「あんなひとなら、なにもこわいことはありやしない。……あッ、たらしい。又八またはちさん、そこにっていると、わたしもつかるし、おまえもひどうからかくれてくださいよ!」
「――なに、そいつがたと?」
 又八またはちは、うろうろして、態度たいどけっしかねていた。