170・宮本武蔵「風の巻」「夜の道(3)(4)(5)」


朗読「170風の巻12.mp3」14 MB、長さ: 約 15分 06秒

 げたもの印籠いんろうとはえなかったのである。それをかおへぶつけられて、居酒屋いざかやのおやじが、いたいッといいながら両手りょうてかおをおおうと、暖簾のれんなかからのぞいていたきゃく大勢おおぜいが、
「ひでえやつだ」
 と、又八またはち行為こういにくみ、

 ののしると、いっせいに、
「――たたんじまえ」
 と、そとた。
 いずれも多少たしょうなり酒気しゅきをおびているものばかりだ。さけものほどまた、さけうえ不徳漢ふとくかんをつよくにくむものである。
「くせになる、野郎やろうかねはらってゆけ」
 と前後ぜんごかこんで、
「てめえのようなやつは、おおかた年中ねんじゅう、そのたおしているのだろう。――かねがなければ、おれたちに、ひとつずつあたまなぐらせろ」
 こう連中れんちゅうがいきまいて、ふくろだたきの私刑しけい宣言せんげんすると、又八またはちは、かたなつかまもるようにって、
「なんだ? おれをなぐる? 面白おもしろい、なぐってみろ。――貴様達きさまたちは、おれをだれだとおもっているか」
物乞ものごいよりも意気地いくじがなくて、ぬすよりもふて芥溜ごみため牢人ろうにんおもっているが、それがどうした」
「いったな」
 あおじろい眉間みけんをよせて、自分じぶんまわりをめまわしながら又八またはちは、
「おれのいておどろくな」
だれおどろくものか」
佐々木小次郎ささきこじろうとはおれのことだぞ。伊藤一刀斎いとういっとうさいのおとうと弟子でし鐘巻流かねまきりゅうのつかい小次郎こじろうらねえか」
わらいわかしやあがる。きいたふう文句もんくはいいから、かねせ、んだかねを」
 一人ひとりが、してめると、又八またはちは、それにかえすことばのかわりに、
印籠いんろうらなければ、これもくれてやるっ」
 ちに、かたなはらって、そのおとこ手首てくびっておとした。きゃっ――とおおげさな悲鳴ひめいをあげたので、まさかと多寡たかをくくっていた居酒屋いざかや相客あいきゃくたちは、自分じぶんがこぼれたような錯覚さっかくに、しりあたまをぶつけって、
いたっ」
 と、われがちにげだした。
 又八またはち白刃しらはをふりかぶってそのしたに、さつきゅうえたようなひからし、
いま、なんといった。かえってむしけらども、佐々木小次郎ささきこじろうのうちをせてやる。――てっ、そのくびを、いてけ」
 宵闇よいやみなかで、又八またはちは、一人ひとり白刃しらはりまわしていた。おれは佐々木小次郎ささきこじろうだと、しきりに見得みえっていたが、もう相手あいてはひとりもいないし、れてきた夜空よぞらには、からすいていなかった。
「…………」
 くすぐられたように、又八またはちそらむかって、しろせてわらった。けれどもしそうなさびしさが、すぐそのおもてをつつみ、あぶなげなつきでかたなさやにもどすと、ひょろ、ひょろ……とあるしていた。
 かれ居酒屋いざかやのおやじのかおへぶっつけた印籠いんろうは、おやじがげこんでしまったため、みちばたにちたまま、ほししたひかっていた。
 黒檀こくたん木地きじ青貝あおがい象嵌ぞうがんがしてあるだけで、たいして高価こうか印籠いんろうともえないが、よるみちてられてあると、その青貝模様あおがいもようひかりが、ほたるのかたまりがちているように、ひどく妖美ようび燦々きらきらえる。
「――おや?」
 すぐあとから、居酒屋いざかや六部ろくぶがそれをひろった。六部ろくぶはなにかいそあしだったが、もう一度軒下いちどのきしたへもどってって、隙洩すきも燈火あかりにかざしながら、仔細しさい印籠いんろう模様もよう緒〆おじめ調しらべていた。
「――あっ? これは旦那様だんなさま印籠いんろうだ、伏見城ふしみじょう工事場こうじばでむごいかたをなされた草薙くさなぎ天鬼様てんきさまっていたしな。……これこのとおり、天鬼てんきと、印籠いんろうそこちいさくってある」
 見遁みのがしてはならないといそぐように、六部ろくぶかげは、又八またはちかげを、すぐってった。

佐々木様ささきさま佐々木様ささきさま
 だれかうしろでぶとはおもっていたが、自分じぶんでない証拠しょうこである。っている又八またはちみみには、とおらなかった。
 九条くじょうから堀川ほりかわのほうへ又八またはちあるいてゆく。いかにも自分じぶんあましているかげだった。
 六部ろくぶあしはやめてた。うしろから又八またはちかたなのこじりをつかんで、
小次郎殿こじろうどの、おちなさい」
 と、いった。
 又八またはちは、エ? ――と、でもするように振向ふりむいて、
「おれか」
 というと、
「おてまえは、佐々木小次郎殿ささきこじろうどのではないのか」
 六部ろくぶには、けわしいひかりがひそんでいた。又八またはちは、いのさめかけたかおつきで、
「おれは、小次郎こじろうだが、……その小次郎こじろうだったら、なんとする?」
きたいことがござります」
「な……なにをだ」
「この印籠いんろうはどこからおれましたな」
印籠いんろう?」
 いよいよかれ酒気しゅきはさめ加減かげんになってくる。伏見城ふしみじょう工事場こうじばでなぶりごろしになった武者修行むしゃしゅぎょうかおつきが、ふとのそばにちらついた。
「どこからおれたものか、さ、それがきたい。小次郎殿こじろうどの、この印籠いんろうは、どうしておてまえのものになったのでございますか」
 口上こうじょう六部ろくぶいつめるのだった。年頃二十六としごろにじゅうろくしちおとこ年齢としからいっても、ただ寺院じいんまわって碌々ろくろく後生ごしょうねがっているような、生気せいきとぼしい人物じんぶつではない。
「……だれだ、おぬしは一体いったい
 やや真顔まがおかえって、又八またはちがこう相手あいてさぐると、
だれでもいいではないか。それよりも、印籠いんろう出所しゅっしょっしゃい」
もとからおれのものなのだ、出所しゅっしょもあるものか」
うそをいうな!」
 きゅうに、六部ろくぶは、語気ごきをかえて、
「ほんとのことをおいいなさい。場合ばあいによっては、んだ間違まちがいごとになりますぞ」
「これ以上いじょう、ほんとはない」
「じゃあどうしても、おてまえはどろかないな」
どろとは何事なにごとだ」
 いきおい、又八またはち虚勢きょせいると、
「このにせ小次郎こじろうめっ」
 六部ろくぶたずさえていた四尺二よんしゃくに三寸さんずんかし丸杖まるづえが、言葉ことばよりはやくびゅっとかぜらしていた。こし退本能ほんのうはうごいたが、からだそのものにまださけしびれがのこっていた。
「あっ――」
 三間さんげんよろめいたあげく、こしをついたが、がるがはやいか、うしろをせてした。そのはやさはちょっと六部ろくぶ狼狽ろうばいさせた。
 泥酔でいすいしている相手あいてなので、そう機敏きびん行動こうどうはできまいと軽蔑みくびっていた反動はんどうだった。六部ろくぶあわてて、
「おのれっ」
 いかけながら、かしつえを、かぜせて又八またはちかげげた。
 又八またはちは、くびをすくめた。つえはうなりをって、みみのそばをとおってく――。これはたまらないとおもったらしい、又八またはちは、いよいよたいはずませてげた。
 はずれたつえひろって、六部ろくぶちゅうぶのだった。そして頃合ころあいはかると、もいちどつえやみほうった。
 だが又八またはちは、からくもそのつえさきから二度にどまであぶないところをのがれた。総身そうみあなからさけ一瞬いっしゅんえてくなっていた。

 けつくようにのどかわく。
 どこまでげてても、六部ろくぶ跫音あしおとがうしろからきこえるがするのだ。はや六条ろくじょう五条ごじょうちかまちならびである。又八またはちむねをたたいて、
「うう、ひでえった。……もうまい」
 そこで、横町よこちょうのせまい路地ろじのぞきこんだのは、みちかんがえているのではなく、井戸いどさがしているらしい。
 その井戸いどつかったとみえ、又八またはちは、路地ろじおくへはいっていった。細民街さいみんがいなかにある共同井戸きょうどういどである。
 釣瓶つるべげると、又八またはちは、それへ、かぶりつくようにしてみずんでいた。ついでに釣瓶つるべしたにおいて、ざぶざぶとかおあせあらう。
「……なんだろう、あの六部ろくぶは」
 人心地ひとごこちかえってみると、気味きみのわるさが、またよみがえってくる。
 かねはいっている紫革むらさきがわ巾着きんちゃく中条流ちゅうじょうりゅう目録もくろくと、そして先刻さっき印籠いんろうと、こうみっつのしなは、去年きょねん夏伏見城なつふしみじょう工事場こうじばで、大勢おおぜいのために虐殺ぎゃくさつされたあごのない武者修行むしゃしゅぎょう死骸しがいからってたものだった。そのうち、かねはきれいにつかってしまい、懐中ふところのこっていたのは、中条流ちゅうじょうりゅう印可目録いんかもくろくと、あの印籠いんろうひとつ。
六部ろくぶのやつ、あの印籠いんろうは、おれの主人しゅじん持物もちものだといっていたが、――するとあいつは、んだ武者修行むしゃしゅぎょう奉公人ほうこうにんだろうか」
 世間せけんせまさに、又八またはち始終追しじゅうおいつめられている気持きもちだった。肩身かたみがひけて、日蔭ひかげあるけばあるくほど、いろいろな偶然ぐうぜんが、おにかげみたいに、ってくる。
つえぼうか、なにしろすごいものぶっつけやがった。あのうなってぼうさきでこーんとひとあたまでもやられたらそれりだ。――なにしろ油断ゆだんはできねえぞ」
 死人しにんかねつかってしまったということが、えず又八またはち良心りょうしんなかにあった。わるいことをしたとおもうたびに、あの炎天えんてんもと虐殺ぎゃくさつされたあごのない武者修行むしゃしゅぎょう死顔しにがおにちらついててならない。
 ――はたらいてもうけたらきっとなによりさきかえす。出世しゅっせしたら石碑せきひひとつもてて供養くようもするから、とかれこころのうちで、えず死者ししゃびていた。
「――そうだ、こんなものも、懐中ふところっていると、どんなうたがいをかけられるかもしれねえ。いっそててしまおうか」
 中条流ちゅうじょうりゅう印可目録いんかもくろくを、着物きもののうえからさわってみながらかんがえた。いつも胴巻どうまきなかっている巻物まきものがそれだった。ってあるくにも相当厄介そうとうやっかいしなである。
 ――だが、又八またはちはすぐ、しいともおもう。すでにかね一文いちもんもないし、っている財産ざいさんといえばその巻物一まきものひとつだった。なんとかこれをたねにして、出世しゅっせつるとはゆかないまでも、からだくちはないものかと僥倖ぎょうこうをたのむ気持きもちが、そのために、赤壁あかかべ八十馬やそまにうまうまと詐欺さぎにかかったあとまでも、いまだに量見りょうけんからなくなっていない。
 その印可いんかいてある佐々木小次郎ささきこじろう詐称かたってあるくと、かなり都合つごうのよいときもある。無名むめいちいさい道場どうじょうとか、剣術けんじゅつずきの町人ちょうにんなどにしめすと、多大ただい尊敬そんけいをうけたうえに、一宿一飯いっしゅくいっぱん礼儀れいぎだまっていてもさきからとってくる。この正月しょうがつ半月はんつきなどは、ほとんどその巻物まきものってあるいたといってもよい。
「なにも、ててしまうにはあたるまい。おれはだんだんちいさくなるようだ。そのちいさいのが出世しゅっせさまたげかもしれないぞ。武蔵むさしのように、ふとくなろう。天下てんかったやつをみろ」
 そうはらめたものの、今夜こんや寝床ねどこのあてもなかった。どろくさかたむいているようなそこらの細民さいみんくついえでも、そこの人間にんげんには、ひさしがあるとおもえば、又八またはちうらやましくてならなかった。