169・宮本武蔵「風の巻」「夜の道(1)(2)」


朗読「169風の巻11.mp3」10 MB、長さ: 約 10分 47秒

よるみち

「なんてざまだ、吉岡よしおか二代目にだいめは。――いい気味きみだとおもっておれはんでいるんだ、これで、グッとむねがったというものさ」
 場末ばすえ牛飼町うしかいまちなかにある居酒屋いざかやだった。土間どまのうちは、まきけむり煮物にもののにおいでもうくらかったが、そとは、夕焼ゆうやぞら火事かじのようにみちまであかくしていて、暖簾のれんのうごくたび、東寺とうじとう夕鴉ゆうがらすくろみたいにとおえる。
「まあめやい」
 いたはさんで、むかいにこしかけているのはさん四人よにん小商人こあきゅうど。またひとりで黙々もくもくめしべているろくがあるし、銭独楽ぜにごまをまわして、さけけている労働者ろうどうしゃひとかたまりだの、せまい土間どまにいっぱいだった。
くらいぞ、おやじ、はなさけれちまうじゃねえか」
 だれかがいうと、
「はい、はい、ただいま
 片隅かたすみ土間炉どまろから、まきほのおおおきくつ。そとれてくるほどに、このなか赤々あかあかいてきた。
おもしても、しゃくにさわってならねえ。おととしからのすみまきさかなだいだ。あの道場どうじょうつかうのだからちッとやそっとのものじゃあない。大晦日おおみそかこそ、とかけてったところが、門弟もんていどもが、勝手かってなごたくをならべたあげく、掛取かけとりのおれたちを、そとつましゃあがったじゃねえか」
「まあ、そうおこんなさんな、蓮台寺野れんだいじの一件いっけんで、おれたちの鬱憤うっぷん因果いんがはてきめん、あいつらへかえっていらあな」
「だからよ、今頃いまごろまで、おこっているわけじゃねえ、うれしくってたまらねえのだ」
「だが、吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうも、はなしけば、あんまりもろかたをしたものじゃねえか」
清十郎せいじゅうろうよわいのじゃない、武蔵むさしというおとこが、途方とほうもなくつよいらしいんだ」
「なにしろ、たんだ一撃ひとうちで、清十郎せいじゅうろうひだりだかみぎだか、どっちか一本いっぽんくしちまった。それが木剣ぼっけんだというからすごい」
ってみたのか、おめえは」
「おれはねえが、ってみた連中れんちゅうはなしくと、そんなことだったらしい。清十郎せいじゅうろう戸板といたにのせられてかえってたが、生命いのちだけはまあめるらしいが、生涯しょうがいからだ不自由ふじゆうということになってしまった」
あとは、どうなるんだろう」
門弟もんていたちは、どうあっても武蔵むさしをぶちころしてしまわなければ道場どうじょう吉岡流よしおかりゅうはあげてかれねえというんで、しきりにっているが、清十郎せいじゅうろうさえたない相手あいてとすると、武蔵むさしむかって勝負しょうぶのできそうなものは、おとうと伝七郎でんしちろうよりほかにないというので、いま――その伝七郎でんしちろうさがまわっているといううわさだが」
伝七郎でんしちろうというのは、清十郎せいじゅうろうおとうとか」
「こいつは、あによりはずんと、うでのほうは出来できるらしいが、えない次男坊じなんぼうで、小遣こづかいのあるうちは、道場どうじょうへもりつかないで、親父おやじ拳法けんぽう縁故えんこまえをにつかって、諸所方々しょじょほうぼういつめもののように、あそあるいているという厄介者やっかいものだ」
「そろいもそろった兄弟きょうだいだな。あの拳法先生けんぽうせんせいみたいなえらいおひとすじに、どうしてそんな人間にんげんばかり出来できたんだろう」
「だから、すじだけじゃ、いい人間にんげん出来できねえという証拠しょうこだな」
 ――薪明まきあかりが、またくらくなりかけた。そのそばにこしかけたまま先刻さっきからかべりかかって居眠いねむっているおとこがある。だいぶさけはいっているので、居酒屋いざかやのおやじはそっとしていたが、まきくわえるたび、がハゼておとこかみひざへかかるので、
旦那だんなさま、着物きもののすそへ、がつきますで、もすこしうしろへ床几しょうぎをお退げなすって」
 いうと、おとこは、さけ充血じゅうけつしたを、にぶそうにけたが、
「ウム、ウム。わかっているよ、わかっているんだ、そっとしておいてくれ」
 うでぐみもかなければ、こしげないのである。悪酔わるよいでもしているのか、ひどくふさぎこんでいるのだ。
 その酒癖さけぐせわるそうなあおすじのっているかおをのぞいてみると、これは、本位田ほんいでん又八またはちだった。

 蓮台寺野れんだいじのぐるのことは、ここばかりでなく、先々さきざきでのうわさだった。
 武蔵むさし有名ゆうめいになるだけ、本位田ほんいでん又八またはちには、自分じぶんみじめにえててならない。――自分じぶんなんとか一人前いちにんまえのかっこうがつくまでは、武蔵むさしはなしきたくないがするが、みみをふさいでも、こうしてすこひとところというと話題わだいるので、かれ憂鬱ゆううつは、さけにもまぎれきれない様子ようすえる。
「おやじ、もう一杯いっぱいんでくれ。――なに、冷酒ひやでいい、そこのおおきなますで」
「お客様きゃくさま、だいじょうぶでございますか、おかおいろがすこし」
「ばかをいえ、かおあおくなるのはおれのちまえだ」
 もうこのます何度飲なんどのんだろう。んだ当人とうにんよりも、おやじのほうわすれているくらいである。のどとおってゆくさけ一息ひといきだった。
 みほすと、また黙然もくねんと、かべりかかってうでぐみしているのだ。あれだけのりょうみ、足元あしもとにはほのおっているのにまだかおにはいろないさけだった。
(――なあに、おれだっていまにやってみせる、なにも、人間成功にんげんせいこうするには、けんとはかぎるまい。金持かねもちになろうが、位持くらいもちになろうが、になろうが、そのみちでの一国一城いっこくいちじょうあるじになれやあいいんだろう。おれも武蔵むさしもまだ二十二にじゅうにだ、はや世間せけんったやつに、大成たいせいした人間にんげんすくねえ。天才てんさいだとか、なんとかおもがって、三十さんじゅうごろにもなれば、もうよぼよぼしてしまう、っちゃん小僧こぞうというところが、そういう人間にんげんきま相場そうばだ)
 みみにもきたくないとおもいながら、はらではそんな反感はんかん繰返くりかえしていた。今度こんどのうわさを、大坂表おおさかおもてくとすぐ、京都きょうとあしけてたのも、べつになんの目的もくてきがあるというわけでもない、ただ武蔵むさしになってならないので、その様子ようすただけのことにぎない。
(――だが、いまにあいつも、おもがっているうちに、ッぴどいうだろう。吉岡よしおかにだって人物じんぶつはいる、十剣士じゅっけんしもいれば、舎弟しゃてい伝七郎でんしちろうもいる……)
 武蔵むさし名声めいせい一敗地いっぱいちにまみれるようなを、かれえずこころのどこかでっていた。そして、自分じぶんうえには、僥倖ぎょうこうをさがしていた。
「……アアかわいた」
 ひょろりと、のそばからかべにすがってがった。ほかのきゃくかおはみな振向ふりむいてかれた。又八またはちは、すみおおきな水瓶みずがめくびっこむようにして、柄杓ひしゃくからみずをのみ、その柄杓ひしゃくほうりすてると、そのまま、門口かどぐち暖簾のれんをわけて、ふらふらとそとへよろめいてく――
 あきれがおに、ぽかんとしていた居酒屋いざかやのおやじは、又八またはちのすがたが、暖簾のれんそとにかくれると、がついたように、
「もしっ、だんな」
 と、ってて、
「――お勘定かんじょうをまだいただいてございませんが」
 ほかのきゃくも、暖簾のれんすきからみなくびした。又八またはちは、あぶないこしつきでちどまりながら、
「なに? ……」
旦那だんな、うっかり、おわすれなすったんでございましょう」
「わすれものはねえが」
御酒ごしゅの……へへへへ……御酒ごしゅのおはらいを、まだいただいてございませんが」
「アア勘定かんじょうか」
「おそれりますが」
かねはねえや」
「えっ」
「……こまったなあ、かねはねえ。ついこのあいだまではあったんだが」
「じゃあ、てめえは、初手しょてからもんなしでみやがったんだな」
「……だ、だまれ」
 又八またはちは、懐中ふところこしをさぐりまわして、一箇いっこ印籠いんろうにつかむと、それを居酒屋いざかやのおやじのかおむかってげつけていった。
「おれも二本差にほんさしているのだ。まだ、げするほどちぶれちゃあいねえ。――さけだいにゃあものだが、っておけ、剰銭つりはくれてやるから」