165・宮本武蔵「風の巻」「生きる達人(1)(2)」


朗読「165風の巻7.mp3」9 MB、長さ: 約 9分 44秒

きる達人たつじん

 三人さんにんのうちの一人ひとり下男げなんで、もう一人ひとりはこのあますがたの老母ろうぼ息子むすこらしかった。
 息子むすこといっても、もう四十七しじゅうしちはちかともえる人物じんぶつで、京焼きょうやき殿人形とのにんぎょうをそのままおおきくしたようないろしろさと、ゆたかなつやのいい肉体にくたいを、ほおにも、はらにも、ゆったりとっているおとこだった。
 さっき、この老母ろうぼが、
光悦こうえつや――)
 とんだことをおもあわせてみると、このひとは、光悦こうえつとよぶにちがいない。
 光悦こうえつといえば、いま京都きょうと本阿弥ほんあみつじには、天下てんかきこえわたっているおな人間にんげんんでいる。
 加賀かが大納言だいなごん利家としいえから二百石にひゃっこくぐらいの仕送しおくりをうけているのだとひとうらやんでよくうわさにいう。町家まちやんでいて、二百石にひゃっこく蔭扶持かげぶちをもらっていれば、それだけでも豪勢ごうせいなくらしができるであろうに、なお、そのうえにも徳川家康とくがわいえやすからは特別とくべつをかけられているし、公卿くげ堂上どうじょうへは出入でいりをするし、天下てんか諸侯しょこうもこの一町人いちちょうにんいえまえでは、なんとなくけて、馬上ばじょうからみせ見下みおろしてはとおがたいというほどなのである。
 本阿弥ほんあみつじんでいるところから、人呼ひとよんで本阿弥光悦ほんあみこうえつというが、本名ほんみょう次郎三郎じろうさぶろう、また本業ほんぎょうかたな鑑定めききと、とぎと、浄拭ぬぐい。――その三事さんじわざをもって、足利あしかが初世しょせいから、室町むろまちさかえ、今川家いまがわけ織田家おだけ豊臣家とよとみけ代々だいだい執権しっけんから寵遇ちょうぐうをうけていまにつづいてているふるいえすじでもあった。
 そのうえに、光悦こうえつは、もよくくし、陶器とうきもやれば蒔絵まきえもする――わけても、しょにおいては、彼自身かれじしんもいちばん自信じしんのあるところで、まずいま名筆家めいひつかをかぞえるならば、男山八幡おとこやまはちまん松花堂しょうかどう昭乗しょうじょうか、烏丸光広卿からすまるみつひろきょうか、近衛信尹公このえのぶただこう――あの三藐院風さんみゃくいんふう世間せけんでいうところの書風しょふう創始者そうししゃか――この光悦こうえつといわれるほどなのである。
 けれど、光悦自身こうえつじしんは、それほどな評価ひょうかさえ、まだ自分じぶんつくしているものとは受取うけとっていなかった。
 こういうはなしさえ巷間こうかんつたわっている――
 とき
 光悦こうえつが、ごろしたしい近衛このえ三藐院さんみゃくいんをそのおやかたたずねた。こうは、氏長者前関白うじのちょうじゃさきのかんぱくといういえがらの貴公子きこうしであり、現職げんしょく左大臣さだいじんというおごそかな顕官けんかんであったが、性格せいかくはそんな野暮やぼひとでなかったらしい、なんでも朝鮮ちょうせんえきのあったとしには、
(これは、秀吉一箇ひでよしいっこわざとはいえない、国家こっか興廃こうはいにかかわることだから、わしは日本にほんのために坐視ざししていられない)
 といい、とき天子てんし奏上そうじょうして、征韓せいかんえき従軍じゅうぐんしたいことをねがってやまなかったというふうかわったところもある。
 また、秀吉ひでよしがそれをいて、
天下てんか無益むえきだいなるもの、れにくなし)
 と、喝破かっぱしたということであるが、そうわらった秀吉ひでよし朝鮮征略ちょうせんせいりゃくそのものが、あとでは天下最大てんかさいだい無益むえきと、ひとたちから時評じひょうされたのはおかしなことであった。それはそうと――その近衛三藐院このえさんみゃくいん光悦こうえつ訪問ほうもんしたおり、いつもの書道しょどうはなしからはながさいて、
光悦こうえつ、おまえいましょにおいて天下てんか名筆めいひつ三人さんにんかぞえるとしたら、たれをえらぶな)
 と、いた。
 光悦こうえつは、さればにてそうろうというていで、即座そくざに、
「――まずつぎはあなたさま、そのつぎは、八幡はちまん滝本坊たきもとぼう――あの昭乗しょうじょうでございましょうかな」
 すこしのみめないかおつきをして、三藐院さんみゃくいんは、もういちどなおした。
「まずつぎは……とおまえはいったが、その最初さいしょ第一番だいいちばんだれなのじゃ」
 すると、光悦こうえつは、にやりともせず相手あいてていった。
「わたくしでございます」
 ――こういう本阿弥ほんあみ光悦こうえつなのである。だがいま武蔵むさしのまえにいる下男げなんづれの母子おやこがその本阿弥ほんあみつじ光悦こうえつかどうか、その家族かぞくにしては、とも一人ひとりしかれていないし、衣服いふくやあたりの茶道具ちゃどうぐなども、あまりに質素しっそすぎるがしないでもない。

 光悦こうえつは、ゆび絵筆えふでをはさんでいた。ひざには一帖いっちょう懐紙かいしっている。その懐紙かいしには、かれ先刻さっきから丹念たんねん写生しゃせいしていた枯野かれのながれがきかけになっていた。そばにらかしてある反古ほごにもみなおなみずせんばかりが手習てならいでもするようにいてあるのであった。
 ――ふと、振向ふりむいて、
(どうなされたのです?)
 とうように、光悦こうえつは、下男げなんのうしろにおののいているははのすがたと、そこにっている武蔵むさしのすがたとをしずかなまなざしでくらべた。
 そのおだやかなひとみれたとき武蔵むさし自分じぶんなごんでくる心地ここちがした。しかししたしみというにはあまりにとおいものなのだ。自分じぶんらのちかくには見当みあたらないかた人間にんげんであって、そのくせ非常ひじょうなつかしみをおぼえさせるひとみなのである。はらゆたかなように、そこふかひかりをたたえて、そのはまたいつのまにか、武蔵むさしたいして、旧知きゅうちのようなみをにこにこしめしていた。
御牢人ごろうにんさま。……なんぞははあやまちでもいたしましたかな。せがれのわたしがもう四十八しじゅうはちにもなりまする、このははとしもそれでおさっしくださいませ。からだはすこやかでございますが、ちと、がかすむなどとこのごろもうしまする。はは粗相そそう幾重いくえにもわたしがおわびいたしましょう。ご勘弁かんべんくださいまし」
 ひざ懐紙かいしゆび絵筆えふでを、毛氈もうせんのうえにいて、ていねいにをつかえようとするので、武蔵むさしは、いよいよもって、そんな理由りゆう自分じぶん老母ろうぼおどろきをもとめたわけでないことを、明白めいはくにしなければならなくなった。
「あいや……」
 自分じぶんひざおとして、武蔵むさしはあわてて、光悦こうえつ辞儀じぎをさえぎった。
「あなたがご子息しそくでござるか」
「はい」
「おわびは、拙者せっしゃからせなければならぬ。なんで、おおどろきなされたか、自分じぶんにはとんとわからぬが、此方こちらのすがたをると、ご老母ろうぼが、この小笊こざるてておげなされた。……ればお年寄としよりが、せっかくまれた若菜わかなせりなどの種々くさぐさあとっているではないか。この枯野かれのからこれだけのあおものをおりなされたご老母ろうぼ丹精たんせいおもうと、自分じぶんがご老母ろうぼおどろかした理由りゆうはわからぬが、まないとぞんじたのです。……で、小笊こざるひろいあつめて、これまでってただけのことです、どうかおをあげてください」
「ああ、そうですか」
 光悦こうえつは、それですっかりわかったように暢々のびのびわらいながら、ははのほうへむかって、
「おきあそばしたか、母者人ははじゃびとは、なんぞおもちがいをなされたのでございましょうが」
 すると、かれははは、いかにもほっとしたらしくかくれていた下男げなんかげからすこて、
光悦こうえつや、それでは、その御牢人様ごろうにんさまは、なにもわしたち危害きがいくわえようとするおひとではありませぬか」
害意がいいどころか、あなたさま小笊こざる若菜わかなてておいでなさったので、この枯野かれのからそれだけのあおものをさがしてんだ年寄としより丹精たんせいがいとしいとっしゃって、これへっててくだされたほど、わか武人ぶじんにしてはこころのやさしいおかたでございます」
「それはまあ、まぬことを……」
 と、老母ろうぼ武蔵むさし恐縮きょうしゅくするまえへ、手頸てくび数珠ずずかおがつくほどひく辞儀じぎをしてあやまるのであった。
 それから、こころけたように、この老母ろうぼまでわらいこぼれながら、息子むすこ光悦こうえつにこうはなすのであった。
「わしは、今思いまおもうと、まことにまんことじゃったが、この御牢人様ごろうにんさま一目見ひとめみとき、なにか、血臭ちぐさいものがまえたようで、からだじゅうのあながとひきめられるようにこわかったのじゃ。いま、こうしてれば、なんのこともないおひとじゃがの」
 そういて、武蔵むさしこそ、この老母ろうぼ何気なにげないことばに、はっとむねかれた。われにかえって、われという自身じしんすがたを、他人たにんからせつけられたがしたのである。